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フイルム試験所、写真フィルムの試作に成功

 

写真フィルムの事業化を決意した大日本セルロイドは、1928年(昭和3年)、「フイルム試験所」を創設し、写真フィルム工業化のための製造研究に着手する。フィルムベースの製造、写真乳剤の研究など、幾多の問題が山積しているが、悪戦苦闘のうえそれらの問題を一つ一つ解決し、写真フィルム国産化という大目標に一歩一歩近づいていく。そうした折、今度は、コダック社から写真フィルム事業の共同経営の企図が持ち込まれるが、不調に終わり、あくまでも自主開発を目指す。1930年(昭和5年)には、東洋乾板で行なっていた写真乳剤研究もフイルム試験所に移し、本格的研究を開始する。そして、1932年(昭和7年)、映画用ポジフィルムの試作に成功する。

フイルム試験所の発足

東洋乾板で写真乳剤の研究を進める一方、大日本セルロイドは、フィルムベース、フィルムおよび印画紙の工業化についての製造研究を推進するため、試験工場を、東京板橋区志村にある大日本セルロイド東京工場の敷地内に建設することとした。この試験工場は、1928年(昭和3年)5月、しゅん工し、これを「フイルム試験所」と名付けた。(当時は、「フヰルム試験所」とも呼称した。)

[写真]大日本セルロイドフイルム試験所全景

大日本セルロイドフイルム試験所全景

しゅん工に先立ち、1927年(昭和2年)7月、大日本セルロイド網干工場から春木榮(後の当社第2代社長・現相談役)が赴任し、フイルム試験所主任に任命され、試験所の建設、機械設備の選定などに当たった。

フイルム試験所の完成を目前にして、1928年(昭和3年)4月、大日本セルロイドの写真フィルム事業の推進責任者であった専務取締役嶋村足穂が急逝し、その任は、常務取締役淺野修一(後の当社初代社長)に引き継がれた。

フイルム試験所は、1928年(昭和3年)6月、フィルムベース製帯機の据え付けを完了し、製造試験を開始した。

しかし、製帯機は輸入品であり、当初は、操作に戸惑いながらの手探り作業であった。たとえば、フィルムベース部門では、薄いゼラチンを銅帯に何回も塗って徐々に乾かす方法をとっていたが、銅帯面へのゼラチン塗布がうまくいかず、しかも乾いた面の継ぎ目が悪いため、き裂が生じやすくて、ドープ(硝化綿に溶剤、しょうのうを混ぜて水あめ状にしたもの)を流すところまではいかないという状態であった。き裂の問題は、その後、濃いゼラチンを1回塗布し、これを冷却させ徐々に乾燥させることによって解決したが、新たに、ゼラチン面からのベースのはく離が困難になるという問題が生じ、その解決にも悩まされた。

フィルムベース製造試験が始められた翌1929年(昭和4年)10月、ニューヨーク株式市場の大暴落に端を発した世界恐慌の嵐は、わが国にも襲来し、大日本セルロイドもその余波を受けて不況に陥った。そして、その打開策の一つとして、東京工場を一時的に閉鎖せざるを得ない状態になったが、フイルム試験所における研究だけは継続された。

フイルム試験所の悪戦苦闘

[写真]大日本セルロイド東京工場(フイルム試験所)跡に建てられた「純国産写真フィルム発祥の地」の石碑

大日本セルロイド東京工場
(フイルム試験所)跡に建てられた
「純国産写真フィルム発祥の地」
の石碑

[写真]フイルム試験所当時の春木榮

フイルム試験所当時の春木榮

[写真]フイルム試験所当時の竹内喜三郎

フイルム試験所当時の竹内喜三郎

フイルム試験所での研究は、その後も悪戦苦闘の連続であった。

1930年(昭和5年)4月に入社し、フィルムベース担当者となった北島弘蔵(後の当社取締役足柄工場長)は、試験過程で生じるさまざまな問題に取り組み、まず、温湿度調節空気清浄装置を設置して、実験室内の温湿度の調節を図ることにした。これによって、作業室内の防じん効果があがるとともに、一定の温湿度の確保が可能になり、製帯機からのはく離が容易になったが、カーリング(乾燥によってフィルムベースが反り返ること)とシワの発生が新たな問題として生じ、さらに乾燥についての改善研究を進めなければならなかった。

新たな問題の発生、そしてその解決、といった悪戦苦闘を繰り返しながらも、1933年(昭和8年)に至って、ついに、使用可能なフィルムベースを作ることができるようになった。

一方、フィルムの写真乳剤の研究は、春木榮が担当し、東洋乾板の研究所に週1~2回出向いて、まず、映画用ポジフィルムの写真乳剤の研究に当たった。

映画用フィルムは、大別して、ポジティブフィルム(略してポジフィルムともいう)と、ネガティブフィルム(略してネガフィルムともいう)の2種があり、撮影用にはネガフィルムを用い、それをポジフィルムに焼き付けて映写用とする。写真にたとえれば、ネガは原板であり、ポジは印画紙に相当するものである。ポジフィルムは、万一不都合があった場合でも焼き直しができるが、ネガフィルムに欠陥があった場合は撮影からやり直さなければならない。ネガフィルムの製造には、ポジフィルムに比べて、より高度な技術が必要とされたので、当社は、まず、ポジフィルムの研究から手掛けたのであった。

1929年(昭和4年)4月には、竹内喜三郎(後の当社取締役副社長)が入社し、この研究を引き継ぎ、並行して、ネガフィルム用の写真乳剤の研究も進めることになった。写真乳剤の研究は、当初、フィルムベースをガラス板に貼り、乾板塗布機で乳剤塗布を行なったあと、フィルムをガラス板からはぎ取る方法によっていた。

1930年(昭和5年)5月、それまで東洋乾板で行なっていた写真乳剤の研究をフイルム試験所に移し、同年11月には、フィルムベース製帯室の隣を暗室に改造して、小型の塗布機を1機設置し、本格的な研究に着手した。そして、同年末には、幅24cm、長さ5~6m、時には20mものフィルムの塗布乾燥ができるまでになった。

さらにこの年には、前年入社した淺井権之助(後の当社足柄工場印画紙部長)が担当者となって、印画紙製造の研究にも着手し。

当時のフイルム試験所の状況について、次のような回顧記が記されている。

「当時は人数も少なく、一人であれもこれもする万能選手であった。作業の第一の難関は、製帯機銅帯のゼラチンによるツヤ出し工程であった。この仕事は、朝から準備して夜半あるいは翌朝までかかったが、その間、絶対に目を離すことができず、本当の徹夜作業で、休憩も何もあったものではなかった。」

まさに、不眠不休の努力によって、フィルム国産化の夢は、一歩一歩その実現に近づいていった。

コダック社の提携申し入れ不調

フイルム試験所で写真フィルム国産化への努力が続けられていた1920年代末から1930年代の初めは、内外ともに多事多難な年であった。

1927年(昭和2年)金融恐慌の発生、1929年(昭和4年)世界大恐慌、翌1930年(昭和5年)の浜口首相そ撃事件、続いて1931年(昭和6年)満州(現中国東北部)で起こった日中の軍事衝突、さらに1932年(昭和7年)五・一五事件、1933年(昭和8年)日本の国際連盟脱退など、大きな事件が相次いで発生した。

こうした激動の時期であったが、この時代はまた、新しい文化が開花した時代でもあった。すでに1925年(大正14年)ラジオ放送が開始されていたが、1929年(昭和4年)蓄音器の国産化、そして1930年代に入って、それまでの無声映画に代わるトーキー映画が出現した。1931年(昭和6年)、国産初の本格的トーキー映画「マダムと女房」が封切られるに及んで、映画人口は急激に増大していった。

写真感光材料の分野においても、ロールフィルムが登場し、カメラの取り扱いが容易になったことと相まって、アマチュア写真家の数も次第に増えつつあった。

ロールフィルムは、それまで外国からの輸入に依存していたが、1928年(昭和3年)、旭日写真工業株式会社(その後、企業整備により解散)が“菊フヰルム”を、翌1929年(昭和4年)には、小西六本店が“さくらフヰルム”を、それぞれ発売した。

こうした折、1929年(昭和4年)、世界最大の写真フィルムメーカー、コダック社から、日本国内での写真フィルム事業共同経営の企図が、大日本セルロイドに持ち込まれた。

しかし、大日本セルロイドでは、すでに写真フィルム事業の自力による開発の決意を固め、フイルム試験所を設立して、新事業の実現に取り組んでいる最中でもあり、また、コダック社から提示された条件も、とうてい容認しがたいものであったので、結局、このコダック社の申し入れは不調に終わった。

大日本セルロイドは、コダック社の技術に頼るという安易な道を選ぶより、たとえどんな困難があろうとも、あくまで自主技術によって写真フィルムの国産化を実現するという決意を一層強くしたのであった。

映画用ポジフィルムの試作

[写真]フイルム試験所における映画用フィルムのテスト

フイルム試験所における
映画用フィルムのテスト

[写真]三井本館における商品展示説明会

三井本館における商品展示説明会

[写真]フイルム試験所が試作した陽画用フヰルムのレーベル

フイルム試験所が試作した
陽画用フヰルムのレーベル

[写真]フイルム試験所で試作したロールフィルム(大日本フヰルム)

フイルム試験所で試作した
ロールフィルム(大日本フヰルム)

コダック社の提携申し入れは不調に終わったものの、こうしたコダック社の動きは、大日本セルロイドを驚かせるに十分な出来事であり、大日本セルロイドにとって、写真フィルム国産化の実現が一刻の猶予も許されなくなったことを知らされたのである。

このころ、大日本セルロイドは、研究の一層の進展を期するために、1931年(昭和6年)4月、映画用ポジフィルム製造に関する研究奨励金を政府に申請した。

この申請は、翌年1月、映画用フィルムの国産化に大きな関心を寄せていた商工省の承認するところとなり、1931年度(昭和6年度)分として8,000円が交付された。

1932年(昭和7年)になると、映画用ポジフィルムの製造研究もかなり進んだので、大日本セルロイドは、自社の製品とフイルム試験所での研究の進ちょく状況を紹介し、写真フィルム事業への理解を深める目的で、同年2月、東京日本橋の三井本館において、商品展示説明会を開く計画を立て、説明のためPR映画を作って公開することにした。

この映画の撮影には、フイルム試験所が試作したポジフィルムを使用したが、製作の楽屋裏は大変な騒ぎであった。

関係者全員で、枠現像(木枠にフィルムをとめて現像する方法。現像液の中で枠を上下させるとき、チャブチャブという音がするので仲間うちでは“チャブチャブ”と呼ばれていた)を何日も徹夜で行なった。まだ長尺のフィルムは作れず、一本一本が短いうえに、フィルムは傷だらけで、悪い個所は切り捨ててつなぐ、切り貼り作業を繰り返した。それでも、関係者の努力の結果、ようやく映画が完成し、国産ポジフィルムによる初の映画が、三井本館で、三井の首脳や実業界に初めて公開された。

この映画製作の指揮をとった、竹内喜三郎は述懐する。

「カーリングはひどいし、映像は暗い。いやはや大変冷汗をかきました。よくまあ、あんな映画をつくったものだと恐ろしいくらいです。」

しかし、たとえ不完全でも、自社製のポジフィルムで映画を作ったという事実は、それ以後の研究に大きな自信と希望を植えつけたのである。

その後、同じような展示説明会は、工業倶楽部や小田原在住の三井の長老益田孝氏邸でも催された。

こうして、1932年(昭和7年)秋には、一応の映画用ポジフィルムが完成し、映画製作会社に実技試験を依頼するまでになった。

なお、その前年1931年(昭和6年)7月には、ロールフィルムも試作して、“大日本フヰルム”と命名した。

一方、映画用ネガフィルムの研究についても、研究を促進するため、研究奨励金を申請していたが、1933年(昭和8年)2月に、映画用ネガフィルム製造研究奨励金1万3,000円の交付を受けた。

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