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“豊富な良質の水”と“きれいな空気” - 箱根山ろく南足柄に大工場を

 

映画用フィルムの試作に成功した大日本セルロイドは、1932年(昭和7年)3月、「フィルム・乾板・印画紙事業計画」を決定し、写真感光材料工場の建設に乗り出す。写真感光材料の製造のためには、何よりも“大量の良質の水”と“きれいな空気”とが不可欠で、工場適地を求めて広範囲に踏査し、結局、神奈川県西部箱根外輪山のふもとに位置する南足柄村(現南足柄市)に決定する。南足柄村でも、村の発展のために工場の進出を歓迎、約10万m2の用地買収も順調に進み、直ちに建設工事に着手する。1933年(昭和8年)12月には、フィルムベース工場、フィルム工場、乾板工場、印画紙工場を主とする一大工場群が完成し、相次いで試運転に入り、操業開始に備える。

工場の適地を求めて

大日本セルロイドは、1926年(大正15年)に「フィルム事業自立計画」を決定し、その第一段階として、フィルムの製造研究を進めてきたが、研究試作の進展とともに、フィルム工場建設計画の立案作業を開始した。

そして、1932年(昭和7年)3月22日の重役会において、「フィルム・乾板・印画紙事業計画」が付議され、ここでフィルムの事業化が正式に決定した。

春木榮は、当時の状況を、後年、次のように語っている。

「大日本セルロイドの写真フィルム工業化の計画は、研究開発もまだ完成していない段階で、あまりにもリスクが大きく、“暴虎馮河”に等しかった。しかし、海外メーカーのわが国への企業進出の動きもみられ、商工省の助成政策もあり、この機会を外しては写真フィルム工業の設立は到底できないと判断し、事業化に踏み切ることにした。」

この事業計画の策定と並行して、工場建設のための用地選定作業を進めた。

当初は、原料供給の関係から、大日本セルロイドの工場の近くを調査したが、適地が見つからず、調査地域は、広く関西、関東一帯に及んだ。

用地選定に当たって求められていた適地条件は、次のような厳しいものであった。

[写真]写真工業への進出を決定した大日本セルロイド重役会議事録

写真工業への進出を決定した大日本セルロイド重役会議事録

  1. 夏季に温湿度があまり高くならないこと
  2. 空気が清浄で、冬季に大風がなく、乾燥すること
  3. 鉄分、塩類、有機物質の含有量の少ない水が大量に得られること
  4. 交通が至便なこと
  5. 周囲に人家が密集していないこと
  6. 質朴な気風のある地であること

これらの条件の中でも、特に“豊富な良質の水”と“きれいな空気”とは、写真感光材料製造上欠かせないものであった。

作間政介と春木榮は、適地選定のため、かなり広範囲に各地を踏査したが、結局は東京近郊に絞られ、大宮、八王子付近、沼津、三島周辺、御殿場、身延線沿線、東海道沿線などを重点的に踏査した。

この踏査で、たまたま箱根明神岳のふもと南足柄(神奈川県足柄上郡南足柄村、現在の南足柄市)の地を訪れた作間と春木は、そこで「清左衛門地獄」と呼ばれるゆう水池に出会った。1932年(昭和7年)6月2日のことであった。

[写真]浮気(ふけ)ゆう水 1933年(昭和8年)2月当時

浮気(ふけ)ゆう水
1933年(昭和8年)2月当時

土地の人に尋ねると、すぐ近くにも「浮気(ふけ)ゆう水」というわき水があるという。二人は教えられるまま500mほど歩くと、そこにも、かなりの量の水がわき出ているゆう水池があった。水温を計ると、初夏の陽ざしの下にしては、14.5℃と冷たかった。

二人は、このわき水について、土地の人の話を聞いてみた。伝えられるところでは、二つのゆう水池はいずれも箱根芦の湖の水が地下を通って海へ流れ出る途中、その一部が地表にわき出るもので、一年中水量がほとんど変わらないし、長い間一度もかれたことがないということであった。

南足柄村で工場適地としてほぼ理想と思われるわき水に出会った二人は、さっそく会社に帰って調査報告を行なった。

2週間後の6月19日には、淺野専務が南足柄の現地を視察し、さらに7月2日には、大日本セルロイドの森田会長、西宗専務らが、御殿場と南足柄の両候補地を訪れて、優劣を比較検討した。その結果、南足柄を工場建設の第一候補地とすることで意見が一致し、さっそく現地の水質試験を行なうことになった。

水質試験は、厳密な化学分析とともに、写真感光材料製造に対する適性も詳しく調べられた。その結果、写真工業用水として理想的な水質であることが判明した。

工場用地の買収

フィルム新工場建設予定地を南足柄村に決定した大日本セルロイドは、工場建設の具体的な計画の策定に着手する一方、南足柄村に用地買収の申し入れを行なった。買収候補地は、南足柄村の狩野、中沼両地区にまたがる約10万m2が予定された。

南足柄村は、明神岳のふもとにあり、狩川と酒匂川の間の丘陵地にひらかれた水田で米をつくり、また、そこに散在する畑で、野菜、みかん、茶などを栽培して生計を立てている純農村であった。当時、すなわち1933年(昭和8年)の南足柄村の人口は約4,500人、戸数は約700戸で、買収候補地となった狩野、中沼両地区は、ともに戸数100戸に満たない小さな村落であった。

明神岳の中腹には、曹洞宗の名さつ大雄山最乗寺があり、小田原から山ろくの関本まで、参けい者のための鉄道大雄山線が敷かれ、関本駅付近は参けい者でにぎわっていた。しかし、沿線からややはずれた狩野、中沼地区は訪れる人も少なく、静かなたたずまいをみせていた。

そこへ、突如、フィルム工場建設と、それに伴う用地買収の話が持ち込まれたのである。地元に、土地を手離すことへの抵抗があったことは、想像に難くない。

1932年(昭和7年)8月7日、大日本セルロイドは、南足柄村の極楽寺において、地元有力者との初会合を持ち、協力を求めた。

次いで、8月20日、南足柄村長神野作十郎氏をはじめ、石井平吉氏、前村長井上宗環氏など村の有力者を招請し、フィルム工場進出計画の概要を説明し、理解を求めるとともに、用地買収について正式に協力を要請した。

神野村長らは、村の発展のためにフィルム工場の誘致に協力するとの姿勢を示し、用地あっ旋委員を選任して、村民への協力を求めた。

その後、村当局の協力と会社側の委曲を尽くした説明によって、漸次村民の理解も深まり、用地買収問題は買収価格を残して合意するに至った。

買収価格は、当初、用地あっ旋委員から1反歩(約1ha)当たり1,100円が示されたが、数回にわたる話し合いの結果、1反歩当たり950円で合意した。

[写真]土地売買契約の調印(南足柄村極楽寺にて)

土地売買契約の調印(南足柄村極楽寺にて)

このうち、650円は大日本セルロイドが支払い、300円は村が補償することに決定した。ただし、村の補償分は会社が一時立て替えて支払い、その代償として、会社が操業開始後4年間村税を免除することで申し合わせが成立した。

同年12月3日、極楽寺において、双方の関係者が出席し、売買契約書に調印し、ほぼ4か月にわたる用地買収交渉を終えた。

この用地買収に示された南足柄村の関係者および村民の協力は、当社創業の歴史のうえで忘れることのできないことである。

新工場の建設

用地買収と並行して、工場建設の具体的計画も進められ、1932年(昭和7年)12月、大日本セルロイドは、総予算206万円の建設計画を正式に決定した。

この事業推進の責任者である淺野専務は、東京紀尾井町の万平ホテルの一室を借りて、写真フィルム事業関係者の指揮に当たっていた。業務が錯そうするに従って、恒常的な事務所の必要性に迫られ、1932年(昭和7年)11月、東京銀座の菊正ビルに事務所を設け、「大日本セルロイド株式会社写真フヰルム部」の看板を掲げた。

ここでは、新工場建設関係の業務と並行して、東洋乾板製品の販売業務も併せ行なうことにした。

当時、フィルムは「フヰルム」とも表示されており、事務所の看板にも当初は「フヰルム部」と書かれていたが、その看板をながめていた淺野専務は、“ヰ”より“イ”の方がいいと考え、「フイルム部」と書き改めさせた。以来、当社は、商品名もすべて「フィルム」に統一した。

新工場建設工事の地鎮祭は、1933年(昭和8年)1月10日、地元南足柄村の関係者など200余名を招き、盛大に挙行された。

地鎮祭終了後、直ちに建設工事が開始され、それまでののどかな田園風景は、一変して騒々しい工事現場と化していった。

[写真]建設中の足柄工場を訪れた特約店の会「弥生会」のメンバー

建設中の足柄工場を訪れた
特約店の会「弥生会」のメンバー

工事は、まず整地から始められた。工場予定地は南が少し傾斜し低くなっているため、水源地に続く丘陵地を買収し、そこを切りくずして地盛用土として低地に運搬した。

整地と並行して泉川の付け替え工事も行なわれ、さらにフィルムベース工場、乾板工場、フィルム工場、印画紙工場など、各建物の工事も相前後して着工された。

写真感光材料製造工場にとって、特に留意しなければならないのは、空気調節設備、廃水処理施設および防火設備であった。

空気調節室を工場群の中央に配置し、太いダクトで各工場を結んだ。

廃水処理については、汚水を狩川に流さないため沈殿浄化池を設置した。

防火対策についても、万一災害が起こった場合でも、災害を最小限に防ぐ工夫がなされた。

こうして、広い敷地内に新しい建物が次々に建てられていった。

着工以来10か月というスピードで、延べ面積1万1,000m2の足柄工場の建物が完成し、写真フィルム工場にふさわしく、ライトイエローで仕上げられた外壁は、初秋の空に美しく映えた。

機械の買い入れと設置

新工場の建設工事着工寸前の1932年(昭和7年)12月、春木榮は、製造機械の購入と欧米におけるフィルム事業の実情調査のため、シベリア鉄道経由で渡欧した。春木は、欧州各地および米国を訪れ、購入機械の選定と買い付けに当たった。

そのころ、わが国の機械工業の技術水準は欧米と比べてまだ低く、フィルムベース製帯機などは欧米から調達しなければならなかったのである。

工場建物の完成と相前後して、新たに購入した各種の機械の据え付けが始められた。フイルム試験所の設備も製帯機1機を残して、すべて移設された。

1933年(昭和8年)1月10日の地鎮祭からほぼ1か年、年末には、足柄工場はすべての工事を完了して、機械の設置を終え、正式の操業許可を待つのみとなった。

[写真]しゅん工した足柄工場

しゅん工した足柄工場

なお、機械調達のため渡欧していた春木には、別の二つの目的があった。その一つは、当時世界有数の写真工業会社であったベルギーのゲバルト社との提携問題である。

1932年(昭和7年)、大日本セルロイドが新工場建設地を南足柄村に決めた直後、ゲバルト社の代表が大日本セルロイドを訪れ、写真フィルム工業の原材料、半製品の供給ならびに技術提携と出資を申し入れた。

大日本セルロイドは、すでに原材料からの一貫製造を決意し、その方向で進んでいたとはいえ、まだ技術面で若干の不安があり、ゲバルト社との技術提携、事業の共同経営の申し出には食指を動かさざるを得なかった。そこで、一度は同社との提携の方針を決め、機械購入のため渡欧した春木に、その折衝をゆだねたのである。

春木は、ゲバルト社と数次にわたる交渉を行なったが、結局、条件が折り合わず、本社からの指示に従って交渉を打ち切った。

春木渡欧のもう一つの目的は、足柄工場の本格稼働に備え、特に感光色素の合成と写真乳剤製造について、指導を仰ぐための外人技術者の招へいであった。この件では、ドイツ人技師E.G.マウエルホフ博士(Dr.E.G.Mauerhoff)と契約を締結することができた。

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