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「品質第一主義」を貫く

 

企業存亡の瀬戸際に立たされた当社は、その中で“品質がすべてを決定する”、“全社員が一つになって事に当たれば困難を克服できる”という教訓を得る。そして、全社一丸となって製品の品質改良に取り組んだ結果、1936年(昭和11年)、新しいフィルムベースによる映画用ポジフィルムを完成する。さらに、映画用ネガフィルム、ロールフィルム、X-レイフィルムなど、相次いで市場に送り出す。これら新製品の発売によって、業績は一挙に好転し、創立以来7期目の1937年(昭和12年)4月期決算で累積赤字を一掃、初の配当を実施して株主に報いる。さらに、同年5月には資本金を1,000万円とする第1回の増資を決議し、足柄工場の大拡張を実施し、総合写真感光材料メーカーとしての業容を整える。

映画用ポジフィルムの完成とネガフィルムの発売

創立以来2年間、満足する製品がなかなかできず、品質改善に多大の苦心を払ってきた当社が、その過程で得た教訓は、“品質がすべてを決定する”、“全社員が一つになって事に当たれば困難を克服できる”の二つであった。

一時は、会社の存続すら懸念される瀬戸際に立たされた当社であったが、淺野社長はじめ、経営者、従業員一丸となって、品質の向上と需要の開拓にまい進した。

マウエルホフ博士の指導で写真乳剤の生産方式も確立した。フィルムベースの耐久力不足の問題も、製造条件を改善し、また大日本セルロイドの協力を得て、原料リンターの品質を改善するなど、その解決に全力をあげて努力した。その結果、1936年(昭和11年)初頭には、ようやく新しい写真乳剤と新しいフィルムベースによる映画用ポジフィルムを完成した。

他方、映画用ネガフィルムの研究については、大日本セルロイド時代から着手していたが、本格的に研究が進展したのは当社発足後のことである。

まず、1934年(昭和9年)8月、ネガフィルム用写真乳剤の試作研究に着手、1936年(昭和11年)4月、当社として初めての映画用ネガフィルム“富士陰画用フィルム”を発売した。

“富士陰画用フィルム”の発売によって、それまで輸入に依存していた映画用ネガフィルムの国産化が実現し、これで、ネガフィルム、ポジフィルムともに、映画用フィルムの国産化が達成された。

その後、1937年(昭和12年)、ネガフィルムのパンクロ化(全可視光域の光に感光するようにすること)を実現し、映画製作各社の注目をひいた。また、同年9月には、映画録画用の“富士サウンドレコーディングフィルム”を発売した。

一方、16mmフィルムの分野では、教育映画界の要望に応えて、1938年(昭和13年)6月に、16mm“富士ポジティブフィルム”を、1943年(昭和18年)2月には16mm“富士スーパーパンクロマティックネガティブフィルム”を完成し、それぞれ発売した。

ロールフィルムの発売

[写真]富士陰画用フィルム(レーベル)

富士陰画用フィルム
(レーベル)

[写真]ロールフィルム発売のポスターを掲げる淺野社長

ロールフィルム発売の
ポスターを掲げる淺野社長

一般写真用のロールフィルムの研究も、すでに、大日本セルロイド時代から着手していたが、本格的な研究に取り組むようになったのは、当社発足後のことである。

そして、創立の翌年、1935年(昭和10年)夏には、ほぼ製品化の見通しを得るに至った。

そのころ、映画用フィルムが不評で、会社が苦境に陥っていたので、ロールフィルムを発売して苦境打開の一助にしようという考えもあった。それは、ロールフィルムは、加工に手数がかかり、包装経費も高いが、反面、付加価値も大きく、したがって、収益への寄与も相当なものが予想され、ロールフィルム発売の魅力は捨てがたいものがあった。

しかし、当社は、もともと、映画用フィルムの国産化を目指して設立された会社であり、まず、映画用フィルムの欠陥を解決するのが当面の課題であり、その解決に全力を傾注し、それが達成された後、初めてロールフィルムの製造を始めるべきであると決意して、ロールフィルム製品化の見通しがついていたにもかかわらず、見送ることにしたのである。

いたずらに安易な道を選ばず、このように困難な課題に正面から取り組んだ姿勢こそ、当社の事業経営の基本理念であった。

したがって、映画用フィルムの製造が完全に軌道に乗るのを待って、当社はロールフィルムを発売することとし、1936年(昭和11年)4月、当社初のロールフィルムとして、オルソクローム(紫色から緑色までの光に感ずる)タイプの“富士クロームフィルム”と、さらに感度が高い“富士ネオクロームフィルム”を発売した。その後、1937年(昭和12年)6月には、パンクロタイプの“富士ネオパンクロマティックフィルム”を発売し、ロールフィルムの品種を整備した。

翌1938年(昭和13年)6月、当社初の一般用35mm判(135サイズ)フィルムとして、かねてから研究を進めていた“富士35mmフィルムSP”を発売し、ライカ、コンタックスなど35mmカメラの愛用者の需要に応えた。1940年(昭和15年)10月には、粒状性を改良した“富士35mmフィルムFP”を発売した。

この間、1937年(昭和12年)9月、“富士ネオクロームパックフィルム”を発売、翌1938年(昭和13年)7月には、“富士ポートレートカットフィルムオルソ”を一部の地域に向けて発売するなど、品種の整備を図った。

[写真]富士クロームフィルム

富士クロームフィルム

[写真]富士ネオクロームフィルム

富士ネオクロームフィルム

[写真]富士ネオパンクロマティックフィルム

富士ネオパンクロマティックフィルム


[写真]富士35mmフィルムSP(レーベル)

富士35mmフィルムSP
(レーベル)

[写真]富士35mmフィルムFP(レーベル)

富士35mmフィルムFPP
(レーベル)

X-レイフィルムの発売

[写真]富士レントゲンフィルム

富士レントゲンフィルム

当社は、写真フィルムの新分野として、X-レイフィルムにも着目し、その写真乳剤の研究を進めていたが、1935年(昭和10年)秋にはほぼ研究を完了し、X-レイフィルムの試作を始めた。

試作品の実技テストを大学病院などに依頼し、そのテスト結果に基づいてさらに改良を進め、翌1936年(昭和11年)、本格生産を開始した。

そして同年4月、ロールフィルムと同時に、X-レイフィルムを“富士レントゲンフィルム”の名称で発売した。

当時、わが国のX-レイフィルム市場は、コダック社、アグファ社の製品によって、そのほとんどが抑えられていて、国産品の進出は極めて困難な情勢にあった。

当社は、これらX-レイフィルムを、従来の写真感光材料特約店の販売ルートのほか、医療機器の販売ルートを経由して出荷したが、大病院には当社から直納した。

また、セルロースダイアセテートを使用した不燃性(DAC)ベースの試作研究を続け、1940年(昭和15年)、“富士レントゲンフィルム(不燃性)”を製品化した。また、同年末には、不燃性ベースを使用した間接撮影用X-レイフィルムも製品化した。

製版用フィルムの発売

[写真]富士プロセスフィルム(レーベル)

富士プロセスフィルム
(レーベル)

[写真]富士航空測量用特殊フィルム(レーベル)

富士航空測量用特殊フィルム
(レーベル)

創立の年、1934年(昭和9年)10月、しゅん工なった足柄工場の見学に訪れた津田隆治氏(後のプロセス資材株式会社社長)は、グラビア製版用ポジフィルムと映画用ポジフィルムの写真性能がほぼ等しいことを指摘し、その製品化を提案した。

当社は、津田氏の提案を受け入れて、グラビア製版用ポジフィルムの試作を進め、1934年(昭和9年)12月、製品化に成功し、“富士プロセスフィルム”として発売、グラビア製版の分野に進出した。

1939年(昭和14年)9月には、フジリスフィルムを製品化し、同じころ、フジリス乾板も製品化した。その当時のリスフィルムは、今日のような写真製版用としてではなく、地図の複製用として、また、メーターや計器の文字盤、目盛などの製作用として用いられた。そのころ、満州航空写真処から、広大な満州(中国東北部)各地を航空測量し、急速かつ大量に地図を製作するため、寸度安定性の優れた線画・複製用の超硬調乾板の供給を要望され、フジリス乾板はこの要請に沿って開発したものであった。

このほか、航空写真用として、各種のフィルム、乾板、印画紙を製造してきたが、後に日中戦争ぼっ発後、戦時体制が強化されるに従って、これらの航空写真用製品は、軍用として、品種も増え、生産数量も増大していった。

印画紙・乾板の品種を拡大

[写真]印画紙 ベロナ(レーベル)

印画紙 ベロナ
(レーベル)

[写真]印画紙 那智(レーベル)

印画紙 那智
(レーベル)

[写真]印画紙 銀嶺(レーベル)

印画紙 銀嶺
(レーベル)

一方、印画紙、乾板の分野でも、ようやく販売が軌道に乗ってきた。

印画紙の分野においては、1937年(昭和12年)9月に引伸し用として“ベロナ”を、同年11月には一般用密着紙“那智”を相次いで発売した。“ベロナ”は、以前から研究を続けてきたクロロブロマイド紙で、好評をもって迎えられた。“那智”は国産バライタ紙を初めて使用した製品であったが、性能上不満な点があり、発売の翌1938年(昭和13年)9月、製造を中止した。

さらに、1939年(昭和14年)12月に“富士複写用ガスライト”を、翌1940年(昭和15年)2月には、オシログラフ記録用の“富士オシログラフ用印画紙”を発売した。また、同年9月には、5か年の長期にわたって研究を続けてきた人像用密着紙“銀嶺”を発売し、品種を整備した。

乾板の分野では、1938年(昭和13年)6月、分光スペクトル撮影用として“富士分光分析乾板”を発売し、1940年(昭和15年)10月には、高感度人像用乾板“富士ポートレートパンクロ乾板”を発売した。また、翌1941年(昭和16年)9月には、東京天文台と東京帝国大学からの注文で製造した“富士皆既日食観測用特殊乾板”を納入した

普及宣伝活動の活発化

[写真]「富士ニュース」創刊号

「富士ニュース」創刊号

[写真]「富士フォト」創刊号

「富士フォト」創刊号

[写真]「写真と技術」創刊号

「写真と技術」創刊号

[写真]「富士アマチュアフォト」創刊号

「富士アマチュアフォト」
創刊号

[写真]「富士映画フィルム時報」創刊号

「富士映画フィルム時報」創刊号

[写真]戦時下の新聞広告

戦時下の新聞広告

業績が好転し、販売活動が拡大されるのに伴って、1938年(昭和13年)9月、雑司ヶ谷工場内にあった東京営業所の事務所を3年ぶりに都心に移すことにし、東京銀座西2丁目の中島ビル(現大倉商事ビル)に新事務所を定めた。

営業活動の一環として、普及宣伝活動も、創業時の乾板の実験会以来、積極的に行なってきたが、1936年(昭和11年)4月、ロールフィルムの発売を機に一層活発化した。

ロールフィルムの発売に当たっては、フィルムの外装箱と発売宣伝用のポスターの図案を募集したのをはじめ、発売披露会、撮影会、懸賞写真の募集など、各種の普及施策を行なった。

また、各種の定期刊行物を発行し、製品知識の普及を図った。創立時から、営業写真家を対象とした当社製品の紹介誌「富士ニュース」(後に「写真と技術」と改題)を刊行してきたが、その後、アマチュア写真家を対象とする「富士フォト」(後に「富士アマチュアフォト」と改題)を創刊し、アマチュア写真家の手引書として広く配布した。

1938年(昭和13年)8月には、「富士映画フィルム時報」を創刊した。これは、映画用フィルムの特性の紹介と、撮影、現像についての資料提供を目的として、映画関係者に広く配布したもので、映画各社が当社の映画用フィルムを全面的に使用開始しようとする時でもあり、すこぶる時宜を得たものとして、映画界から好評をもって迎えられた。

各種の展覧会などにも積極的に参加した。

1937年(昭和12年)から1938年(昭和13年)にかけて開催された国産品改善展覧会、国防博覧会、国産カメラ写真用品展覧会、化学工業製品展覧会などに参加したが、1938年(昭和13年)10月に開催された光学工業振興展覧会では、当社出品の映画用ポジフィルム、写真フィルム、乾板、フィルターの優秀性に対し、商工大臣から優良賞が授与された。

さらに、1939年(昭和14年)にニューヨークとサンフランシスコで開かれた万国博覧会にも参加し、雑司ヶ谷工場の特大バットで現像した2.1m×3.6mの特大写真のほか、大型写真を多数作成して展示した。

また、アマチュア対象のロールフィルムの宣伝のため、“冬の写真に感度の速いネオクローム”、“夏でも安心して使える富士のネオパン・ネオクローム”と、製品の優秀性を訴える新聞広告を掲載した。

その後、戦時色が濃くなるにつれ、新聞広告も“銃後の春を戦線へ”、“愛児のスナップに 戦線の慰問に! 富士のフィルム”といった時局を反映したものに変わっていったが、普及宣伝活動自体も次第に縮小せざるを得なくなった。定期刊行物も、統制の強化と紙不足の深刻化によって、発行回数の減少と減ページを余儀なくされた。そして、さらに、戦争がか烈化し、軍用以外の写真フィルムの生産が削減されるに及んで、休刊のやむなきに至った。

累積赤字を一掃、初配当を実施

新製品の市場への投入と営業活動の強化によって、当社は、写真感光材料メーカーの中で、確固たる地位を築きつつあった。

1936年(昭和11年)には、営業活動強化のため、既設の東京、大阪両出張所に加え、新たに、名古屋と福岡に出張所を開設した。業績面でも、1935年(昭和10年)10月期を底として、好転に向かい、売り上げは年々増大した。

この売り上げ増は、主として映画用フィルムと乾板の増加、ならびにロールフィルムの商品化によるもので、1937年(昭和12年)4月期のフィルム全体の売上高は、総売上高の47.3%と、ほぼ半分を占めるまでになった。

それまでの乾板に頼っていた事業構造から、ようやく写真フィルムメーカー本来の姿に近づいてきたのであった。

[写真]助成金辞退申請書

助成金辞退申請書

売り上げ増に伴って、利益も好転し、創立5期目の1936年(昭和11年)4月期には、わずかながら初めての期間利益を計上し、赤字経営を脱却した。7期目の1937年(昭和12年)4月期決算では、累積赤字を一掃することができ、初の6%配当を実施して、株主に報いた。

引き続き、8期目の1937年(昭和12年)10月期も順調に業績をあげ、6%配当を維持できた。ここにおいて、当社は、もはや映画用ポジフィルムに対する製造奨励金の交付は受けるべきでないとして、翌1938年(昭和13年)1月、奨励金の交付を辞退する旨申請した。

なお、当社が、創業時の苦難を乗り越えて、ここまでこられたのは、資金面でも、大日本セルロイドの援助と、三井銀行、三井信託をはじめとする関係金融機関の理解に負うところが大きかった。

足柄工場の拡張、資本金1,000万円へ増資を決議

[写真]増資決定役員会後の寄せ書 1937年(昭和12年)2月

増資決定役員会後の寄せ書
1937年(昭和12年)2月

[写真]拡張後の足柄工場 1939年(昭和14年)4月

拡張後の足柄工場
1939年(昭和14年)4月

1930年代半ばを迎えて、映画は年を追って隆盛の一途をたどり、映画館の年間延べ観客数は、1936年(昭和11年)に2億5,000万人に、翌1937年(昭和12年)には2億9,000万人に達した。これに伴って、映画用フィルムの使用量も増大、当社製品に対する需要が激増した。

この需要増は、当社製品の品質の向上が次第に需要者に認識された結果、信頼をかち得たものであったが、一方、国際情勢の変化に伴う国産品の使用奨励の動きも大きな要因であった。

1937年(昭和12年)2月、こうした状況のもとで、当社は、足柄工場の大拡張計画を決定した。

内外の情勢が流動している中での設備の拡張については、当座の需要に見合う程度にとどめ、しばらく情勢の変化を見守ったほうがよい、という自重論も強かった。しかし、淺野社長は、「映画は現代人のし好に合致し、今後ますます盛んになり、それに伴って当社の映画用フィルムに対する需要も、国際情勢のいかんにかかわらず増大するに違いない。もともと、映画用フィルムの国内完全充足は、当社創立以前からの宿望であり、いまこそ宿望達成のための絶好のチャンスである」として、足柄工場拡張計画を決断したのであった。

この拡張計画の最重点項目は、フィルムベースの生産能力の向上であったが、フィルム部門、印画紙部門、乾板部門も、同時に拡充を図ることとした。

フィルムベース部門では、すでに1935年(昭和10年)10月、第1次拡張工事を行ない、次いで1937年(昭和12年)2月に第2次拡張工事を行なったばかりであったが、直ちに第3次拡張工事に着手、翌1938年(昭和13年)1月には、建物工事を完了した。

3回の拡張工事によって、製帯機も逐次増設し、その数は、1938年(昭和13年)末には、累計23機となり、これに関連する仕込、溶剤回収、蒸留などの諸設備も増強し、フィルムベースの生産能力は大幅に向上した。

フィルム部門では、すでに1936年(昭和11年)に第2号塗布機を設置し生産能力を高めたが、引き続き、関連設備の能力向上、塗布スピードのアップ、加工設備の増強などを行なった。また、雑司ヶ谷工場でも、ロールフィルム加工作業ができるように改造し、足柄工場と合わせて生産能力を向上させた。

乾板部門、印画紙部門においても、1938年(昭和13年)1月、乾板第3号塗布機、1939年(昭和14年)12月、印画紙第2号塗布機をそれぞれ増設し、付帯設備も含めて、生産能力を大幅に増強した。

さらに、空調設備やボイラー設備も増設し、一連の倉庫も新設した。

これら大増設工事の完了により、足柄工場の生産能力は大幅に向上し、フィルムベースから一貫生産する総合写真感光材料メーカーにふさわしい威容となった。

足柄工場の拡張計画に併せて、原料薬品工場の建設、研究所の設立など、次代への成長・発展を目指して、総合計画を策定、その実現のため、1937年(昭和12年)5月の定時株主総会において、同年8月2日付で資本金を300万円から1,000万円に増資することを決議した。増資の払込みは、同年8月から1941年(昭和16年)9月まで、4回に分けて行なわれた。

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