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原材料の自給化 - 小田原、川上、今泉工場の設立

 

写真感光材料の原材料は、高度の品質のものが要求され、かつ、企業秘密に属する部分が多いため、自家製造するのが理想的である。また、わが国の戦時体制への移行に伴い、原材料の海外からの調達は次第に困難となる。当社は、セルロースナイトレート、乾板ガラスなどの主要原料について、国産メーカーから供給を受ける。一方、原料薬品製造のため、1938年(昭和13年)、小田原工場を建設したのを手はじめに、川上工場 (ゼラチン工場)、今泉工場(バライタ紙用原紙工場)を建設し、自給化を進める。しかし、日中戦争の長期化に伴い、バライタ紙用原紙の生産はできなくなり、今泉工場は、地図用紙などの製造に当たる。

原材料の調達

写真感光材料の原材料は、高度の品質のものが要求され、かつ企業秘密に属する部分が多いため、原則として自家製造するのが理想的であるが、すべてを自家製造することは、資金、設備、技術などの点で困難であった。

フィルムベースの主原料であるセルロースナイトレート(硝化綿)については、当初、セルロースナイトレート工場をフィルム工場に併設する計画で、フイルム試験所内に実験設備を設置した。しかし、製造の際発生する硝酸ガスによる写真乳剤への悪影響が懸念されたため、別工場で製造する方針に変え、大日本セルロイド網干工場で研究が始められた。数年にわたる研究の結果、フィルムベース用のセルロースナイトレートの製造が可能になり、全面的に大日本セルロイド網干工場から供給を受けることとした。

乾板用ガラスは、当初は輸入板ガラスを使用した。この間、旭硝子株式会社で試作が進められ、当社は、同社との技術連絡を密にし、研究を重ねた末、1936年(昭和11年)以降は、国産ガラスに切り換えた。

感光物質をつくるのに最も重要な原料は、硝酸銀と臭化カリウムであり、また、各種の感光色素も必要となる。硝酸銀は、高純度のものを多量に要するため、当初から自家製造の方針を決め、東京志村の大日本セルロイド東京工場構内に、当社志村工場薬品部を設けて自家生産を行なった。

臭化カリウムは、当初、国内の製薬工場から購入していたが、1937年(昭和12年)7月以降は志村工場で自家生産を行なった。

感光色素は、すべての写真感光材料メーカーが秘密にしており、自社で開発するより方法がなかった。すでに東洋乾板時代から、理化学研究所の尾形輝太郎博士の指導を受けて研究・製造していたが、当社発足後は、足柄工場や雑司ヶ谷工場に研究室を設け、自社内で研究と生産を行なった。

ともに主要原料であるゼラチン(感光性物質を支持体の上に長期間安定的に保つ物質)とバライタ紙(表面に硫酸バリウム層を塗布した印画紙の支持体)は、当時、国内には製造メーカーがなく、将来自家製造する計画もあったが、創立当初は輸入品を使用した。

原料薬品の自給化 - 小田原工場の建設

[写真]完成時の小田原工場 1940年(昭和15年)

完成時の小田原工場 1940年(昭和15年)

[写真]モノール(レーベル)

モノール(レーベル)

[写真]ハイドロキノン(レーベル)

ハイドロキノン(レーベル)

写真感光材料の生産に対応して、原料薬品の安定供給を確保するためには、足柄工場の近くに原料薬品生産の総合工場を持つ必要があった。

足柄工場に併設できれば理想的であったが、同工場敷地内には適当なスペースがなく、仮にあったとしても、感光色素の場合、合成過程で発生するガスによる写真感光材料製品への悪影響が懸念され、同一敷地内に置くことには問題があった。

そこで、足柄工場の近くに原料薬品の総合工場を建設するため、用地を探し求めていた折、小田原駅と酒匂川との中間に土地売り出しの話があった。

この土地には、かつて小田原紡績株式会社の工場があり、関東大震災で工場が崩壊し、そのまま放置されていたものであった。東海道線の線路沿いで、小田原駅から近く、足柄工場からも約10kmのところにあり、しかも、豊富な工場用水にも恵まれ、工場用地としては格好の条件を備えていた。

当社は、この土地を益田信世氏(後の小田原市長)のあっ旋で買収した。

そして、1937年(昭和12年)12月、第1期建設工事に着手し、翌1938年(昭和13年)6月、研究室、感光色素製造室などが完成した。これに伴って、感光色素の研究・製造部門が、足柄工場からここに移転した。

その後も引き続き、臭化カリウム製造室、精密機械製作室などを増築、さらに1939年(昭和14年)4月には、硝酸銀工場などを新築した。

小田原工場の完成に伴い、1939年(昭和14年)2月、志村工場の臭化カリウム製造設備を移設、翌1940年(昭和15年)8月には、硝酸銀製造設備も移設した。

なお、臭化カリウムは、約1か年小田原工場で製造を行なった後、1940年(昭和15年)8月に大塚製薬工場(現大塚化学株式会社)に生産を移管し、その場所を利用して写真現像薬品“モノール”、“ハイドロキノン”を製造することにした。

ゼラチンの自給化 - 川上工場・狩野工場の設立

写真感光材料の重要原料であるゼラチンは、当社創立当時、国内には写真感光材料に使用できる良質のゼラチンを製造するところがなく、すべて外国からの輸入でまかなわれていた。

当社は、将来ゼラチンを自家製造する構想もあって、創業後間もなく、足柄工場内にゼラチン研究室を設け、ゼラチン製造に関する基礎的研究を行なった。

日中戦争のぼっ発でゼラチンの輸入が困難になってきたため、国産ゼラチンの開発を急がなければならなくなり、当社は、国内のゼラチンメーカーである日本皮革株式会社(現株式会社ニッピ)、新田膠質株式会社(現新田ゼラチン株式会社)との技術協力を積極的に進め、写真用ゼラチンの国産化研究を進める一方、輸入ゼラチンとの混用などについて研究を進めた。その結果、1939年(昭和14年)には、国産ゼラチンを50%混用しても写真性能がほとんど劣らない乾板の製造に成功した。また、同じ年、映画用ポジフィルムでも95%までの混用が可能になり、以降、その他のフィルムでも国産ゼラチンを使用できるようになった。

[写真]狩野工場

狩野工場

[写真]川上工場

川上工場

一部の特殊ゼラチンについては、輸入ゼラチンのストックに依存していたが、その在庫も年々減少してきた。この特殊ゼラチンの製造研究を目指して、1940年(昭和15年)11月、足柄工場の構内、研究所の西側に、パイロットプラントを建設した。これまでのゼラチン研究室にあった研究用の施設もここに移し、また、製造用装置も設置して、これを狩野工場と称し、研究兼製造工場とした。

また、一方で、1938年(昭和13年)から、長野県南佐久郡川上村に工場を置く株式会社日本化学工業所に投資して、写真用ゼラチンの製造研究に関し提携してきたが、翌1939年(昭和14年)には、同社に追加出資し、その経営に参画することとした。

その後、日中戦争が長期化し、また、ヨーロッパで第2次世界大戦がぼっ発したことに伴って、もはや輸入は全く不可能となり、特殊ゼラチンの自給が焦びの急となってきた。このため、当社は、かねてから意図していたゼラチン工場新設計画は日時を要することもあって放棄し、日本化学工業所を吸収合併することにし、1941年(昭和16年)11月、同社を合併した。同社の従業員全員を当社に吸収し、翌12月、当社川上工場として新発足させた。

川上工場は、地理的には足柄工場から離れており、また、生産能力も小さかったが、海抜1,100mの高所にあり、清澄な空気、夏期の低温と豊富な水量は、ゼラチン製造にとって好条件であった。川上工場の設立によって、当社は、写真用ゼラチンについて、一応の自給体制を確立した。

川上工場が発足した1941年(昭和16年)12月、わが国は、太平洋戦争に突入し、翌1942年(昭和17年)5月、企業整備令が公布された。これによって、全国のゼラチンメーカーに対しても統合整備が実施され、当社のゼラチン生産部門は、川上工場のみを残し、狩野工場は閉鎖することになった。

その際、軍需省のあっ旋で、北海道地区でゼラチンの製造を計画していた北海道化学工業有限会社(後に株式会社に改組)に技術協力し、1945年(昭和20年)3月に狩野工場の操業を停止した後、その設備を同社に移設することとした。

この移設は、太平洋戦争終戦時の混乱の影響で、1946年(昭和21年)に完了した。当社は、北海道地区でのゼラチン事業化の構想も考えて、その後、北海道化学工業へ出資した。しかし、戦後の原料事情の悪化もあって、北海道化学工業の経営も行き詰まり状態となった。

その後、戦後の復興も徐々に進み、内地におけるゼラチン事情の見通しに明るさが見えてきたこともあり、当社は、北海道におけるゼラチン事業を断念することにし、1950年(昭和25年)6月、北海道化学工業から撤収するに至った。

バライタ紙の研究 - 今泉工場の建設

三菱製紙株式会社では、かねてから、バライタ紙の国産化の研究を進めており、同社から試作見本が提供されていた。当社としても、輸入に依存していたバライタ紙が国産化されることは、戦時色の濃くなった折から望ましいことであると考え、三菱製紙と技術連絡を進めていた。

その後、三菱製紙でバライタ紙の製造研究が進み、1937年(昭和12年)秋には、同社の製造品は一応使用に耐え得るようになった。そこで、1938年(昭和13年)初め、同社との間にバライタ紙売買に関する契約を取り交わし、輸入品から国産バライタ紙に切り換える道をひらいた。

当社でも、いずれはバライタ紙を自給する計画で、大日本セルロイド時代からその研究に着手していたが、創立直後は、バライタ紙の研究に経費をさく余裕がなかった。

[写真]ウィンキン技師

ウィンキン技師

[写真]今泉工場

今泉工場

1936年(昭和11年)10月、当社はドイツ人技師エミール・ウィンキン(Mr.E.Winkin)を招き、翌1937年(昭和12年)6月には、大日本セルロイドから片倉健四郎(後の初代今泉工場長)を迎え、バライタ紙の製造研究を進めた。当初は、小田原工場にバライタ塗布設備を設けることも企図したが、結局、1937年(昭和12年)12月、暫定的に足柄工場内に研究用のバライタ塗布設備を設けた。1939年(昭和14年)9月までに、各種バライタ紙の試作研究を完了し、量産体制の準備を整えた。

そこで当社は、バライタ紙用原紙の製造工場の建設を計画立案したが、戦時下で、工場新設は困難であったため、既存の工場を買収することにした。たまたま、静岡県富士郡今泉村(現富士市吉原)に、北辰製紙株式会社の遊休工場があった。足柄工場からも日帰り圏内にあり、良質の工業用水にも恵まれていたことから、同工場の買収を決め、1939年(昭和14年)4月、土地、建物、機械設備も含めて買収し、同年5月1日、当社今泉工場として発足した。

買収した北辰製紙の生産設備は、そのままではバライタ紙用原紙の製造には利用できないので、設備の大半を全面的に改造することにした。1941年(昭和16年)10月、長網抄紙機の設置を完了したが、この工事中に情勢が大きく変化した。戦時統制下、今泉工場は、バライタ紙用原紙製造用として稼働することができなくなり、軍用地図用紙製造に転換せざるを得なかった。この結果、1941年(昭和16年)7月、当社は、ついにバライタ紙製造計画を打ち切り、以降、バライタ紙は、すでに生産が軌道に乗っている三菱製紙から供給を受けることになった。

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