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カラー写真感光材料国産化の実現

 

戦後、カラーフィルムの研究を再開し、試作を繰り返して、1948年(昭和23年)4月、外型反転方式のカラーフィルムを発売するに至る。カラーフィルムの国産化については、各方面から期待され、助成措置が行なわれる。1951年(昭和26年)、当社の外型反転カラーフィルムを使用してわが国初めての総天然色映画「カルメン故郷に帰る」が製作され、日本映画史上輝かしい1ページを画す。当社は、その後、内型ネガ・ポジ方式カラーの研究を進め、1958年(昭和33年)、映画用の分野でも、一般写真用の分野でも、カラーネガフィルムを発売する。同時に、一般写真用カラーフィルムの現像およびカラープリント製作体制整備のため、富士天然色写真株式会社に東京現像所を開設する。

外型反転カラーフィルムの試作

戦後、研究の再開とともに、当社は、カラーフィルムの開発を目指して、研究を本格化した。

当時は、戦後の極度の資材不足、とりわけ合成薬品の欠乏でカラーフィルムの研究は困難を極めたが、1946年(昭和21年)には、二色方式の映画用外型反転カラーフィルムの試作が完成し、同年8月に公開された東宝映画「11人の女学生」のタイトル部分に初めて使用された。

翌1947年(昭和22年)には、三色方式の外型反転カラーフィルムの試作品が、2月に公開された名古屋帝国大学製作の学術映画「胃がんの手術」に使用され、また、同年6月には、フィルム試験とカラー撮影の研究を兼ねて、大映作品「キャバレーの花籠」に試用された。

その後、色調の改善やプリント技術の確立を図るなど、三色方式のカラーフィルムの完成を目指して、その研究に全力を傾注した。

1949年(昭和24年)に入ると、映画の一部分にカラーを使用するパートカラーが使用されはじめた。東横映画作品「新妻会議」では、当社の外型反転カラーフィルムがパートカラーとして使用され、初めて32本プリントされた。

1950年(昭和25年)1月封切の「日映ニュース」第208号には、パートカラーではあるが、ニュース映画として初めて使用され、40本プリントされた。

“フジカラーロールフィルム”の発売

[写真]富士カラーフィルム(ロール)

富士カラーフィルム(ロール)

[写真]富士カラーフィルム(カット)のレーベル

富士カラーフィルム
(カット)のレーベル

[写真]富士カラーフィルム(35mm判)

富士カラーフィルム(35mm判)

映画用カラーフィルムの研究を進める一方で、一般用のカラーロールフィルムの発売準備を進めていった。

発売時期を1947年(昭和22年)9月と定めて、現像設備も整備し、試作品を“富士発色フィルム”と名づけて試験的に使用したり、包装材料・宣伝物などの準備を整えた。ところが、1947年(昭和22年)8月17日、天然色写真研究室実験工場に火災が起こり、カラーフィルムに関する研究資料や研究設備・現像設備が灰じんに帰してしまった。

この火災によって、研究は一時中断した。カラーフィルムの発売も延期して、研究設備・現像設備の復旧、整備を進めた。

そして、翌1948年(昭和23年)4月、ようやく、外型反転方式のブローニー判一般用カラーフィルムを“富士カラーフィルム”の商品名で発売することができた。

この外型反転方式のカラーフィルムは、感度ASA10・デーライトタイプで、6cm×6cm判サイズ6枚撮、小売販売価格は現像料込みで1本450円であった。また同時に、ごくわずかではあったが、カットフィルムも発売した。

当社創立から数えて14年、天然色写真研究室が発足してから9年、戦中・戦後の悪条件を克服して、ようやく一般用カラーフィルムを発売するに至ったのである。

翌1949年(昭和24年)10月には、カラースライド用として最適の35mm判サイズで、同じくデーライトタイプの外型反転方式カラーフィルム“富士カラーフィルム”を発売した。この35mm判カラーフィルムには、不燃性のセルロースダイアセテート(DAC)ベースを使用し、1本20枚撮で、小売販売価格は現像料込みで680円であった。

これらのカラーフィルムの現像は、すべて研究所で行なうこととし、遅くとも2週間以内に現像依頼者に届けられる体制をとった。その後、1951年(昭和26年)1月、研究所内に現像部を新設し、各種の設備を整備し、現像体制を増強した。1956年(昭和31年)8月には、現像部を足柄工場に移管した。

カラーフィルム国産化への期待

カラーフィルムの国産化は、各方面から期待され、重要視されていた。

1949年(昭和24年)8月には、「天然色映画」の研究に対して、朝日新聞社から科学奨励金が贈られた。さらに、1950年(昭和25年)2月には、通商産業省から、映画用天然色写真フィルム現像処理の工業化試験補助金として、当社に550万円が交付された。

カラーフィルムの開発促進は国会でも取り上げられ、同年4月、衆議院で、天然色映画産業の振興に関する決議が採択された。そして、翌1951年(昭和26年)5月には、カラーフィルム育成のために、「天然色写真」は、法人税免除の重要物産に指定された。

衆議院の決議やこれらの行政措置は、カラーフィルムの国産化への期待の大きさを物語るもので、当社としても、それらの要望に応えるために、カラーフィルムの品質の向上と量産化の実現に総力をあげて取り組んだ。

また、全日本写真材料商組合連合会は、1950年(昭和25年)10月、会員から拠金を募って、カラーフィルムの研究者に謝意を表明することを決議し、翌年9月、当社および小西六写真工業に感謝状といっしょに贈呈された。

総天然色映画「カルメン故郷に帰る」完成

[写真]「カルメン故郷に帰る」の特別試写会にて

「カルメン故郷に帰る」の特別試写会にて

1951年(昭和26年)3月20日、松竹映画「カルメン故郷に帰る」の特別試写会が、各界の関係者2,500名を招き、東京劇場で開催された。国産初の総天然色劇映画が完成したのである。

この映画は、松竹常務取締役高村潔氏が総指揮に当たり、木下恵介氏監督のもと、当社の外型反転カラーフィルムを使用して製作が進められた。そして、3月21日、ロードショーとして一般公開されてからは、興行的にもヒットして、日本映画史に輝かしい1ページを飾る作品となった。

しかし、その製作の過程は決して平たんではなかった。すでに短編映画やパートカラーでは試用されてきたとはいえ、反転方式のカラーフィルムを使用する映画の製作は時期尚早との声もあった。当社のカラーフィルムでの長編劇映画製作は初めてのことであり、一応の自信はあったものの、屋外撮影の色の出具合などにいちまつの不安を残していた。このため、撮影条件の設定のために、事前にテスト撮影を繰り返すとともに、万一に備えて黒白フィルムによる撮影も並行して行なわれた。

加えて、当時の外型反転カラーフィルムは、感度が低いために、黒白映画の撮影の場合よりも約3倍の照明が必要であり、できるだけセット撮影を避け、日光の強い夏を選んで撮影が始められた。

こうした中で、当社は、総力をあげて撮影や現像処理に協力するとともに、撮影期間中には、当社技術者が立ち会い、露光条件の決定・フィルターの使い分け・出演者の化粧や照明方法などに協力し、ラッシュプリントを確認しながら撮影を進めるという苦労が続いた。

いかに撮影が困難であったか、主演した女優高峰秀子氏は『わたしの渡世日記』の中で次のように述懐している。

「すべてが第一歩からの出発であり、すべてが暗中模索の連続だった。実際のクランクイン以前の下準備だけで、スタッフはもはやクタクタの状態だった、といっても過言ではないだろう。何を、どう撮れば、どう写るかを、60人のスタッフのだれ一人として分からない、などという奇妙な仕事がこの世にあるだろうか?」

「ステージの中にはカメラが待機していて、真夏の太陽を幾つも集めたようなライトの光芒が被写体、つまり俳優に向かって集中される。カメラテストが始まったのは、25年のちょうど真夏のまっ盛りであった。当時は冷房などという気のきいたものはなかったから、ただでも蒸し風呂のようなステージの中はライトの熱が加わって40度を越える暑さである。」

キャストや製作スタッフの苦労も大変だったが、フィルムの製造と現像処理を担当した当社の苦労も大変だった。

外型反転カラーフィルムの製造には、写真乳剤を一層ずつ、精密に合計5回塗らなければならない。これまでは、パートカラー用として、あるいはスライド写真用として少量製造してきたカラーフィルムを、長編劇映画用として一度に大量に製造することは、至難のわざであった。しかし、足柄工場では、総力をあげてカラーフィルムの製造に努め、必要量を確保していった。

一方、現像処理を担当した現像部も、昼夜の別のない作業の連続であった。万一、発色の不調があったら撮り直しをしなければならないだけに、現像処理には一刻の猶予も許されなかった。そして、やっとでき上がったオリジナルフィルムからのプリント作業も、試し焼きを重ね、1巻ずつ映写して発色状況を確認し、発色が不調な場合は徹夜で再プリントをするなどして、ようやく11本のプリントを製作して一般公開に間に合わせることができた。

本映画は、東京映画記者会から日本映画文化賞を受け、本映画の技術スタッフに対し、日本映画技術協会から表彰状が贈られた。

「夏子の冒険」、「花の中の娘たち」

わが国映画史上にエポックを画した「カルメン故郷に帰る」に次ぐフジカラー使用の第2作として、松竹は、「夏子の冒険」を製作し、1953年(昭和28年)1月に公開した。今回は、第1作で得られた自信から、黒白フィルムでの撮影は行なわず、プリント本数も40本とした。

続いて、1953年(昭和28年)9月には、外型反転フジカラーフィルムによる長編劇映画第3作として東宝映画「花の中の娘たち」が公開された。この映画の製作に当たっては、カラー映画の撮影に初めてスクリーンプロセス(背景をあらかじめフィルムに撮り、これを映写して、その前で演技、撮影する方法)を採用するなど、種々の新しい技法が試みられ、今後のカラー映画のために、技術・演出・製作などのすべてにわたって貴重なデータが得られた。

また、これらの作品と相前後して、当社の外型反転カラーフィルムを使用した短編映画も多数製作された。

内型カラーフィルムの完成 - 「楢山節考」に使用される

「カルメン故郷に帰る」などの一連のカラー映画で外型反転カラーフィルムが長編劇映画に使用されたことは、当社の快挙として、大きな注目を集めた。

しかし、外型反転カラーフィルムのプリント方式は、ポジフィルムからポジフィルムへ焼き付けるポジ・ポジ方式のため、現像処理も複雑で、日数もかかった。このため、多数のプリントを必要とする映画用フィルムとしては、必ずしも適切ではなかった。

[写真]フジカラーポジティブフィルムタイプ8811(レーベル)

フジカラーポジティブフィルム
タイプ8811(レーベル)

[写真]フジカラーネガティブフィルムタイプ8512(レーベル)

フジカラーネガティブフィルム
タイプ8512(レーベル)

折しも、このころから内型方式、すなわち写真乳剤の中にカプラー(カラー写真の発色剤)を添加し、現像処理によって発色させるネガ・ポジ方式のイーストマンカラーが登場し、カラー映画の製作に使われるようになった。ネガフィルムで撮影し、ポジフィルムに焼き付けるネガ・ポジ方式は、多数のプリントを作成するのに適した方式であり、1953年(昭和28年)から、わが国のカラー映画の製作にも採り入れられてきた。当社でも、外型反転方式のカラーフィルムの完成に引き続き、内型のネガ・ポジ方式の研究を進めていたが、1954年(昭和29年)以降、これまでの映画用外型反転カラーフィルムの製造を中止し、内型カラーネガフィルム・カラーポジフィルムの開発に全力をあげることとした。

その結果、研究の努力が実って、1955年(昭和30年)には、カラーネガフィルム(タイプ8511)・カラーポジフィルム(タイプ8811)とも試作を完了し、同年10月に発売した。

当社のカラーポジフィルムが最初に使用されたのは、1955年(昭和30年)秋、松竹映画「絵島生島」と新東宝映画「北海の叛乱」で、それぞれプリントの一部に使用された。その後も品質の改良を続け、1958年(昭和33年)には、改良品“タイプ8814”を発売した。この改良品は、従来よりも品質が大幅に改良されたもので、このころから当社のカラーポジフィルムは広く使われるようになり、販売数量も急速に増加してきた。

カラーネガフィルムについては、発売に先立って、見本映画「花のおとずれ」を製作し、関係者に発表した。その後、電通映画「桂離宮」をはじめ短編映画の一部に使用されたが、さらに改良研究を続け、1958年(昭和33年)、改良品“タイプ8512”を完成した。そして同年6月封切られた松竹映画「楢山節考」に長編劇映画として初めて使用された。この「楢山節考」によって、当社カラーネガフィルムは、その性能を認められ、以降、各社の映画の製作に使用されはじめた。

一般用カラーネガフィルム、カラーペーパーの発売

今日では、カラー写真といえば、印画紙に焼き付けたカラープリントで鑑賞するものが大半であるが、外型反転カラーフィルムで撮影したカラー写真は、通常は、スライド映写機で投影して鑑賞されていた。一方で、黒白写真と同じように印画紙に焼き付けて鑑賞するために、反転カラーフィルムからのカラープリントの作成も行なわれていたが、技術的に複雑であり、プリント価格も著しく割高であった。そのため、カラー写真を、より手軽に、また、割安な価格でプリントしたいというニーズが強かった。このニーズに対応するために、当社は、映画用内型カラーネガフィルム・カラーポジフィルムの研究に次いで、一般写真用についても、内型ネガ・ポジ方式のカラーネガフィルムとプリント用のカラーペーパーの研究を進めてきた。そして、1958年(昭和33年)10月、待望の“フジカラーネガティブフィルム”と、プリント用の“フジカラーペーパー”を発売した。外型反転カラーフィルムを商品化してから、10年目の成果であった。

[写真]フジカラーネガティブフィルム(35mm判)

フジカラーネガティブフィルム(35mm判)

このカラーネガフィルムは、ブローニー判(6cm×6cmサイズ6枚撮)と35mm判20枚撮の2種類で、35mm判20枚撮の販売価格(標準小売価格)は、現像料込みで1本650円であった。いずれも撮影光源に制限のないユニバーサルタイプであり、国産カラーネガフィルムとしては、当時最高の感度(ASA32)を誇っていた。なお、プリント用カラーペーパーは、当社から富士天然色写真株式会社に販売し、同社でカラープリントの製作にあたることとした。

このカラーネガフィルムとカラーペーパーの開発によって、来るべきカラー写真の時代の幕が開けられたと言うことができよう。

富士天然色写真株式会社東京現像所の開設

[写真]富士天然色写真株式会社東京現像所(設立当時)

富士天然色写真株式会社
東京現像所(設立当時)

カラーネガフィルムは、カラーペーパーにプリントして初めてカラー写真として完成するもので、発売に当たっては、現像およびプリント体制の整備が不可欠の要件であった。そこで、足柄工場現像部とは別に、本格的なカラー現像所を建設することとした。用地の選定に当たっては、現像に使用する用水・排水に支障がなく、フィルムの引き取りや配送に便利なように、都心に近く交通上の便のよいことを条件に、候補地を選び、東京郊外の調布市に決定した。

また、現像・プリント業務は、写真感光材料の製造とは性質を異にしており、顧客へのサービスを全うするのにふさわしい体制を確立する必要があったので、当社の組織から切り離して、富士天然色写真株式会社を活用し、同社の現像所として経営することとした。

富士天然色写真株式会社は、外型カラーフィルム発売の2年前、1946年(昭和21年)4月に、カラー写真の利用とその用途開発を図る目的で、当社と株式会社光村原色版印刷所・日本ビクター株式会社の3社が出資して、天然色写真株式会社の社名で設立された会社である。同社は、当社の一般用外型反転カラーフィルムの発売とともに、カラースライドの製作と反転カラーフィルムからの転染式のカラープリント(ダイトランスファー法)の製作業務を行なってきた。その後、1953年(昭和28年)6月には、社名を富士天然色写真株式会社と改め、同年8月には当社の100%子会社となった。

1958年(昭和33年)11月、調布に建設中の現像所が完成したので、この現像所を同社の東京現像所として発足させ、カラーネガフィルムの現像およびカラープリントの製作業務を開始した。

東京現像所の完成に伴い、当社は、従来、足柄工場現像部で行なっていた35mm判やブローニーサイズの外型反転カラーフィルムの現像の業務も、すべて富士天然色写真株式会社に移管した。

カラープリントのサイズについては、当初は、Aサイズ(ペーパーサイズ64mm×89mm)・Bサイズ(ペーパーサイズ89mm×89mm)・Cサイズ(ペーパーサイズ69mm×89mm)の3種類の普及判サイズを定め、その後、Dサイズ(ペーパーサイズ89mm×127mm、後にLサイズと改称)を追加した。これらの各サイズはいずれも89mm幅のカラーペーパーロールから自動プリンターでプリント作業する方式を主とし、このほか、手札・カビネ・八切・六切・半切・全紙などのサイズについても、引伸しプリントを受注することとした。

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