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X-レイフィルムの需要拡大

 

医療用X-レイフィルムは、戦後、結核の早期発見のための集団検診の実施と、医療・保健に対する関心の高まりなどによって、需要が急増する。当社は、この社会的要請に応えて、X-レイフィルムの生産体制を整備して、急増する需要に応える。また、不燃性ベースへの切り替えを実施するとともに、品質面での改善を図り、高感度品の開発を進める。販売体制を整備するとともに、X-レイフィルムの正しい使い方や現像処理技術の向上に結び付く普及活動に力を入れる。一方、鋼板などの溶接部の内部構造を調べるための非破壊検査用として工業用X-レイフィルムを発売し、また、被ばく線量を測定するためのバッジフィルムを開発する。

伸長著しいX-レイフィルム

[写真]戦後のX-レイフィルム集団検診風景

戦後のX-レイフィルム集団検診風景

[写真]間接撮影用富士X-レイフィルム1948年(昭和23年)

間接撮影用富士X-レイフィルム
1948年(昭和23年)

戦後の食糧不足と社会環境の悪化の中で、公衆衛生問題がクローズアップされ、とりわけ結核対策が重視されてきた。結核対策のためには、X-レイフィルムは必要不可欠であり、その供給の増加を強く要請された。1951年(昭和26年)には、結核予防法が改正され、結核の定期検診が義務づけられたことにより、さらに需要は増加した。

当社は、この社会的要請に応え、急増する需要に対応するために、戦後の生産再開とともに、足柄工場の生産設備を整備し、乾板工場をフィルム工場に転換するなど、X-レイフィルムの生産能力を高め、生産数量の増加を図ってきた。X-レイフィルムの生産数量は、終戦後、1950年(昭和25年)までの5年間で急激に増加したが、その後、1950年代の10年間でも、生産量はほぼ5倍に増加した。

この間、品質面でも改善を図った。1948年(昭和23年)2月、集団検診用に使用される間接撮影用X-レイフィルムのシャープネスを改良し、1949年(昭和24年)12月には、直接撮影用フィルムについても、その保存性・信頼性を一層向上させるため、包装材料(内装)に金属はくを使用し、さらに1951年(昭和26年)6月には、包装型式を熱着シール密封方式に改めた。

不燃化と高感度化の追求

[写真]富士医療用X-レイフィルムPX

富士医療用X-レイフィルムPX

[写真]X-レイフィルムの加工作業

X-レイフィルムの加工作業

撮影済みのX-レイフィルムは、現像され、診断用に使用された後、患者のカルテとともに、病院施設内で長期保存されており、保管中の災害予防のためにも不燃性ベースへの切り換えが急がれていた。

当社は、すでに戦前からセルロースダイアセテート(DAC)ベースを使用した不燃性X-レイフィルムを出荷していたが、セルローストリアセテート(TAC)ベースの開発に成功するや、映画用フィルムに続いて、X-レイフィルムも不燃性ベース(TACベース)へ切り換えた。1955年(昭和30年)4月から切り換えを開始し、翌年2月に完了した。

一方、製品の改良については、1950年代に入って本格的に研究に着手し、1952年(昭和27年)4月、ニュータイプ品を発売した。コントラストを改良し、カブリも少なく、性能の均一性を向上させたものであった。

1954年(昭和29年)には、TACベースを使用した高感度品を製造して、アルゼンチン向けに初めて大量輸出を行なった。この時の経験をもとに、1956年(昭和31年)2月には、TACベースを使用して、コントラストを高くし、かつ感度を60%アップした新製品(略称“TX”)を発売した。“TX”は、黒箱に赤文字のパッケージデザインを採用した。

続いて1959年(昭和34年)7月、“富士医療用X-レイフィルムPX”を発売した。これは“TX”に比べ感度が20%アップし、現像進行や定着速度・乾燥速度も大幅に改善した製品であった。この“PX”から、略称を正式に製品名に用いるとともに、パッケージデザインを当社のシンボルカラーであるグリーンの地色に白文字を抜いたグリーンボックスを採用した。

販売体制の整備と普及活動

X-レイフィルムは、他の一般用写真フィルムと同様に、主として写真感光材料特約卸店を通して出荷していたが、戦後、X-レイフィルムの需要増加に伴い、各地の写真材料販売店や医療機材販売店でX-レイフィルムを取り扱う店が増加した。メーカーの生産体制が整備され、市場での販売競争が激しくなったのに伴い、より一層きめ細かな販売活動が必要となってきた。このような情勢に対応して、当社は、新たに、千代田レントゲン株式会社(現千代田メディカル株式会社)・株式会社ワキタ商会などのX-レイフィルム取り扱い専門店をそれぞれ地域別特約店とし、販売組織を整備強化した。

[写真]「富士X-レイ研究」創刊号

「富士X-レイ研究」創刊号

一方、X-レイフィルムの正しい使い方や現像処理技術の向上に結びつく普及活動にも力を入れた。

1948年(昭和23年)2月に「富士X-レイ研究」を発刊した。これは、ユーザーの研究発表の場として、また、当社と顧客とのコミュニケーションを目的として発刊したものであり、その後一時「富士X-レイ時報」と改題したが、現在は「富士メディカルフォーラム」として、発行が続けられている。

また、1954年(昭和29年)9月には、「富士X-レイ写真コンテスト」を開催した。これは、X-レイ写真の撮影および現像処理技術の向上と当社製品の認識を高めるために開催したもので、全国のX線技師の20%にあたる1,643名から2,473点の応募があった。当初はX線写真の審査は困難であるとみられていたが、学会や業界の全面的協力を得て成功させたもので、関係方面から毎年開催してほしいとの強い要望があったため、以後、1963年(昭和38年)まで毎年継続して開催した。

工業用X-レイフィルムの開発

X-レイフィルムは、単に医療分野だけでなく、X線が物質を透過する性質を利用して、金属、とりわけ鋳造品や鋼板の溶接部の内部構造を調べる非破壊検査用として、産業用の分野にも使用される。

日本の船舶の重要部分の接合は、戦前から「びょう接」で行なわれていたが、戦後、船舶建造の大部分は「溶接」に置き換えられてきた。これに伴って、非破壊検査の重要性が認識され、1952年(昭和27年)10月、非破壊検査法研究会(現日本非破壊検査協会)が設立された。

1950年代後半になると、工業用X線装置・ガンマ線装置の普及につれて、非破壊検査用としての工業用X-レイフィルムの需要が増大した。

当社が工業用X-レイフィルムの研究を開始したのは戦時中のことで、戦後、研究は中断していたが、1952年(昭和27年)から再開した。

[写真]富士工業用X-レイフィルム

富士工業用X-レイフィルム

翌1953年(昭和28年)8月には、通商産業省から応用研究補助金70万円の交付も受けて、研究を促進し、1954年(昭和29年)4月、“富士工業用X-レイフィルム タイプ80”をはじめ、“タイプ200”・“タイプ300”・“タイプ400”と各品種を整備して発売した。

また、1958年(昭和33年)10月には、“タイプ100”を追加発売した。

各種感度の製品が整備されたので、被写体の材質・厚さ・使用目的などに応じて、適切なフィルムを選択できるようになった。

また、“タイプ100”は、超微粒子・ノンスクリーンタイプとして、工業用X-レイフィルム分野の主流を占めるようになった。

バッジフィルムの開発

[写真]バッジフィルム着用状況

バッジフィルム着用状況

X線写真の普及に伴い、放射線障害の問題がクローズアップされ、多くの医療放射線業務従事者や工業用検査で放射線を取り扱う技術者の健康管理が強く叫ばれてきた。

当社は、放射線業務従事者の放射線障害を防止するために必要な人体に受ける放射線量を測定するバッジフィルムの研究開発を進め、1954年(昭和29年)4月、バッジフィルム(X-レイ用)を発売した。

一方、1955年(昭和30年)12月には原子力基本法が公布され、翌年6月には日本原子力研究所が発足し、日本でも原子力の平和利用に向けて、実用化の第一歩が踏み出された。

このような情勢に対応して、ガンマ線や中性子線などの放射線による被ばく線量の測定が必要となってきた。そこで当社は、1955年(昭和30年)から1958年(昭和33年)にかけて、通商産業省や科学技術庁からガンマ線や中性子線用のバッジフィルムの試作研究および改良研究についての原子力平和利用研究費補助金を受け、研究を開始した。

ガンマ線用バッジフィルムは、1956年(昭和31年)3月に試作を完了し、同年9月に発売した。これによって、ガンマ線および高エネルギーのX線による被ばく線量が測定できるようになり、原子力関係業務従事者の健康管理に多大の威力を発揮した。

中性子線用バッジフィルムについても、1956年(昭和31年)に研究を開始し、1958年(昭和33年)3月、試作を完了、科学技術庁に報告書を提出した。

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