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フィルム生産体制の増強

 

足柄工場は、設備の復旧、整備を進めるとともに、需要増に対処してフィルム塗布機を増設し、当面の生産能力の増強を図る。一方で、将来に備えて高能率の新工場の建設を計画し、足柄工場北側隣接地を買収、1954年(昭和29年)、わが国でのファクトリーオートメーションの先駆をなすものとうたわれる第3フィルム工場を建設する。一方、カラーフィルムについても専用工場の建設を計画し、第1・第2工場を建設、あわせて、小田原工場にカプラーの製造工場を建設し、内型カラーフィルムの量産体制を整える。他方、ゼラチンの研究・製造を行なっていた川上工場は、国内ゼラチンメーカーの成長に伴い、所期の使命を達成したので、閉鎖する。

フィルム生産体制の復旧整備

足柄工場は、戦後の生産再開に伴い、戦時中に整備不十分なまま酷使した生産施設の整備・補修に努める一方、フィルムの生産能力の増強に全力をあげた。生産再開時には、稼働し得るフィルム塗布機は1機だけで、これであらゆる品種のフィルムを製造しなければならなかったので、思うように増産できなかった。

そこで、1947年(昭和22年)7月、新たに第2フイルム部を設置し、乾板工場の大改造を行ない、乾板塗布機は1機のみを残し、ここにフィルム塗布機1機を新設することとした。新設塗布機は、翌1948年(昭和23年)11月から稼働、主としてX-レイフィルムの製造を担当することとした。

これに伴い、従来のフイルム部を第1フイルム部と改称し、主として映画用フィルムおよびロールフィルムの製造をすることとした。

さらに、その後の需要増加に対応するため、1952年(昭和27年)3月には、第1フイルム部の建物に塗布機1機を増設し、生産能力の増強を図った。

第3フィルム工場の建設

[写真]第3フィルム工場

第3フィルム工場

[写真]第3フィルム工場中央管制室

第3フィルム工場中央管制室

しかし、戦後の復興とともに、映画用フィルム・X-レイフィルムをはじめ各種の写真フィルムの需要量は急増し、生産が需要に追いつかない状況であった。そこで当社は、新工場の建設について検討を開始した。

新工場は、足柄工場のフィルム生産能力を一挙に60%増大させる規模とし、立地条件・機械装置などを調査、検討した。

建設地については、種々検討の結果、フィルムベースの運搬・既設のボイラー・電気設備の活用など、生産の効率化と原価低減の観点から、足柄工場に隣接して建設することとした。工場の北側隣接地約4万m2を買収することとし、1953年(昭和28年)4月、南足柄町との間で、土地の買収・ゆう水池(弁財寺池)水利権の譲渡・町道の一部閉鎖と付け替えなどの交渉を開始した。幸いに、地元の全面的な協力が得られ、用地買収その他について話し合いがまとまり、同年12月、新鋭フィルム製造工場(第3フィルム工場)の建設に着工した。翌1954年(昭和29年)8月には、早くも建屋のしゅん工式を行ない、新工場に塗布機1機および関連する製造設備を設置した。

この第3フィルム工場の完成に伴って、同年9月には、足柄工場に第3フイルム部の組織を新設した。その後、試運転を経て、1955年(昭和30年)初頭には、この新鋭塗布機を基幹とするフィルムの高能率製造体制が確立した。

この新設工場は、創業以来蓄積してきた技術をもとにして、採り入れられる技術はすべて活用し、多くの新しい独創的な設備を施した。中央管制室によるリモートコントロールシステムは、わが国におけるファクトリーオートメーションの先駆をなすものの一つとして、ジャーナリズムの脚光を浴びた。また、その他の諸設備も、品質の良化と得率および作業能率の向上にエポックを画したもので、建設計画の作成当初に計画した以上の精度と能力を示した。

なお、このとき、水利権が譲渡された弁財寺池ゆう水は、以後、足柄工場の第2水源地として利用されている。

この第3フィルム工場は、当社が戦後に完成した最初の大規模な設備で、全長230m・幅30mの巨大な工場は、戦時中の日本海軍最大の戦艦「大和」を思わせるものがあり、「戦艦大和」のニックネームで呼称された。

続いて、さらにX-レイフィルムの生産増強を図るために、第3フィルム工場建物内に塗布機の増設を計画し、この新設第2号塗布機は、1955年(昭和30年)4月に据え付けを完了した。

第3フィルム工場の2号塗布機の完成に伴い、同年6月、第2フイルム部の組織を廃止し、映画用フィルム・35mm判フィルムとX-レイフィルムの生産を第3フイルム部に集中させ、第2フイルム部の建物と設備は、印画紙の製造に充てることとした。

[写真]第2水源地(弁財寺池)1959年(昭和34年)当時

第2水源地(弁財寺池)
1959年(昭和34年)当時

[写真]足柄工場全景 1957年(昭和32年)

足柄工場全景
1957年(昭和32年)

LX加工工場の新設

第3フイルム部の2機の塗布機の本格稼働に伴って、加工設備の増強も求められた。とりわけ、X-レイフィルムの需要の増大は著しく、また、1950年代後半に入ってからは、一般用35mm判フィルムの需要も増大の一途をたどった。

そこで、当社は、X-レイフィルムおよび35mm判フィルムの加工能力を増加するために、第3フィルム工場の隣接地に加工工場を新設することとした。この新加工工場は、1957年(昭和32年)10月から稼働を開始したが、35mm判フィルムの一般呼称であるライカフィルムのLとX-レイフィルムのXをとって、LX加工工場と名づけた。

従来からの第1フイルム部の生産設備に加えて、第3フイルム部の2機の塗布機とLX加工工場の完成によって、各種製造設備がそれぞれ品種別に専用化されることになり、作業効率の向上とコストダウンなどの生産合理化を積極的に促進できる体制が確立した。

第1カラー工場の建設

[写真]第1カラー工場

第1カラー工場

[写真]カプラー製造工場

カプラー製造工場

戦後、カラーフィルムの製造を開始した当初は、第1フイルム部の塗布機で、カラーフィルムの塗布乾燥を行なっていた。カラーフィルムは、多くの写真乳剤層を塗布しなければならないが、当時は、多層同時塗布技術は開発されておらず、何層もの写真乳剤層を一層ごとに塗布していた。したがって、1本のカラーフィルムをつくるためには、時間も多くかかるうえ、品質の維持が難しく、得率も低いなど、多くの問題を抱えていた。しかも、黒白フィルムの製造の合い間をぬってカラーフィルムの塗布を行なわなければならない状況で、映画用フィルムやX-レイフィルムなどの黒白フィルムの増産要請の中で、カラーフィルムの量産化を実現するのは困難であった。

そこで当社は、カラーフィルムの量産化のため、専用工場の建設を計画した。

カラーフィルム専用工場は、終戦直前にインターレアーの製造工場として建設した建物の一部を改造して使用し、1952年(昭和27年)5月、ここにカラーフィルム塗布機1機を据え付けた。この工場(第1カラー工場)は、しゅん工後しばらくは、カラーフィルム製造の試験研究設備として利用したあと、1953年(昭和28年)製造工場に転換して、ブローニー判や35mm判の一般用カラーフィルムの量産化を図った。

また、カラーフィルムの量産化のためには、カプラーの生産体制を整えることが必要であり、1952年(昭和27年)2月、小田原工場にカプラー製造工場を建設した。なお、1951年(昭和26年)1月には、研究所内に現像部を新設しており、これら一連の製造設備および現像処理設備の整備によって、カラーフィルムの製造および現像処理体制が整備されたのであった。

第2カラー工場の建設

外型カラーフィルムに続いて、内型方式のカラーネガ・カラーポジ両フィルムの開発にも成功した当社は、内型カラーフィルムの量産化のため、本格的なカラー工場、すなわち第2カラー工場の建設に着手した。

内型カラーフィルムは、写真乳剤の中にカプラーを添加し、現像処理によって発色させる方式なので、現像液の中にカプラーを溶け込ませ発色させる外型カラーフィルムと比べると、量産化ははるかに難しかった。とりわけ、最大のポイントは、写真乳剤の中にカプラーを均等に分散させることと何層にも及ぶ写真乳剤層を均一に塗布する塗布乾燥工程であった。

そのため、第1カラー工場での経験をもとに、写真乳剤製造工程や塗布・乾燥工程の改良研究を進め、また、各装置の自動化を図り、中央コントロールセンターで集中制御できるシステムを完成した。建設工事は、1956年(昭和31年)5月に着工し、翌年3月に建屋を完成、塗布機(A号機)など所要の設備を整え、試運転のあと6月から本格操業に入った。これによって、内型カラーフィルムの量産体制が整った。

[写真]第2カラー工場

第2カラー工場

しかし、その後、映画用カラーポジフィルムの需要が急激に増大したうえ、映画用カラーネガフィルムや一般写真用カラーネガフィルムを発売したこともあり、カラーフィルムの需要は予想を上回るスピードで増大した。そこで1958年(昭和33年)10月には、さらに塗布機1機(B号機)を増設し、増産体制を整えた。

第2カラー工場の新設と並行して、カプラーの生産能力も増強することとし、1957年(昭和32年)6月、内型カラーフィルムのカプラー専用工場を小田原工場内に建設した。同工場では、従来の小単位の生産方式を改め、仕込み単位をスケールアップして、バッチ間に生ずるばらつきを防ぎ、かつ、収量の増大と生産コストの低減を図った。

川上工場の閉鎖

[写真]閉鎖前の川上工場

閉鎖前の川上工場

川上工場は、1941年(昭和16年)にゼラチンの研究と製造を目的に設置して以来、戦中・戦後のゼラチンの不足時期に、写真感光材料の生産を維持するために、重要な役割を果たしてきた。しかし、足柄工場と遠く離れていて地理的に不便なうえ、生産規模も小さく、当社の需要量をまかなうにはほど遠かった。

そのため、川上工場では、主として特殊のゼラチンの生産を行ない、ゼラチンの量産化については、国内のゼラチンメーカーに技術協力をして、そこからゼラチンの供給を受けてきたが、今や、国内ゼラチンメーカーは、質・量ともに当社が希望する写真用ゼラチンを製造しうるようになってきた。

そこで、当社は、経営全般の効率化の観点から、1954年(昭和29年)7月をもって川上工場を閉鎖することとした。65名の従業員は、少数の退職者を除き、すべて足柄工場に配置転換した。川上工場は、ゼラチンの国産化・自給化という使命を達成し、12年半の歴史に幕を閉じた。

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