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海外市場の開拓

 

当社は、戦後、民間貿易の再開とともに輸出業務を開始する。1949年(昭和24年)、1ドル360円の単一為替レートが設定される。当社は、双眼鏡やカメラなど光学製品の輸出を開始し、双眼鏡は、当社初の本格的対米輸出品となる。一方、写真感光材料については、まず、東南アジアへの輸出からスタートし、次第に仕向け国も拡大していく。1956年(昭和31年)には輸出部を設置して、海外市場の開拓を積極的に進める。そして、南米市場に進出するため、1955年(昭和30年)ブラジルに駐在員を赴任させ、引き続き、1958年(昭和33年)現地販売会社を設立する。また、1958年(昭和33年)、ニューヨークにも駐在員事務所を設置する。

輸出業務の再開

戦後、民間貿易の再開が制限付きではあるが許可されたのは1947年(昭和22年)8月であった。当社も、輸出業務を開始したが、当時は輸出とはいってもまだ商品ごとに為替が異なる複数為替レートであったし、買い付けに来日した外国人バイヤー相手に、印画紙など小口の輸出商談を細々とまとめていくにすぎなかった。

1949年(昭和24年)には、インド向けに映画用フィルムの輸出を開始した。これは戦後のまとまった写真感光材料輸出の第1号であった。しかし、間もなくインド側の輸入制度の変更があったため、この取り引きもストップのやむなきに至った。また、政府ベース取り引きで香港への映画用フィルムの輸出も行なったが、それもわずかの期間で、間もなく停止した。

コンスタントな輸出へ

1949年(昭和24年)4月、1ドル360円の単一為替レートが設定されたことは、それまで複数為替レートによって採算を維持していたわが国商品の国際競争力を弱め、輸出全般に大きな影響を与えた。当社でも、写真感光材料の競争力が影響を受けた。

一方、光学製品では、1949年(昭和24年)から双眼鏡の“メイボー”の輸出を開始した。当初の双眼鏡は、米国内では、主として“ブッシュネル”(Bushnell)の商品名で販売され、性能の優秀さが評価されて、輸出台数も急増していった。双眼鏡は、当社製品の初めての本格的な対米輸出商品となったが、その後、台湾・スウェーデンなどへも輸出された。

また、この年には、当社のカメラ輸出の第1号として、スプリングカメラ“フジカシックス”を東南アジア各国へ輸出した。

単一為替レートの設定で打撃を受けた写真感光材料の輸出については、まず印画紙から、海外市場の開拓を進め、東南アジア各国に輸出を開始した。その後、輸出製品は、X-レイフィルム・アマチュア用ロールフィルム・映画用フィルムと広がり、仕向け国も、東南アジア諸国だけでなく、ブラジルやアルゼンチンと南米にまで及んだ。しかし、当時は生産能力にも限度があり、また、それらの諸国では外貨の不足や輸入制限などの問題もあって、輸出量全体の伸びは期待されたほどではなかった。

[写真]小林専務の羽田空港出発 1950年(昭和25年)4月

小林専務の羽田空港出発
1950年(昭和25年)4月

[写真]海外向けのパンフレット

海外向けのパンフレット

1950年(昭和25年)4月、戦後初めて、専務取締役小林節太郎が米国の写真業界、特にカラー関係の視察を目的に渡米し、当時の写真需要構造・業界の実態・流通機構などを調査、当社の今後の方針決定に多くの示唆を得た。

その後も引き続き、役員や幹部従業員を各国へ出張させ、市場調査や輸出促進あるいは技術事情調査に努めた。当社が戦後の比較的早い機会に海外諸国のマーケティングと技術開発の方向を的確に見定めたことは、その後の当社の発展に貢献するところが少なくなかった。

当社のこうした輸出促進努力は、1954年(昭和29年)アルゼンチンへのX-レイフィルムの大量輸出やインドなどへの一般用写真感光材料の輸出となって現われ、その後の東南アジア各国や南米向け写真感光材料の輸出増大へと結びつくとともに、米国や欧州向けの双眼鏡・カメラなど光学製品の輸出の増加にもつながっていった。

1954年(昭和29年)のアルゼンチン向けX-レイフィルムの輸出開始の当初、現地での現像処理の段階で、軟膜・カブリなどの品質クレームが多発した。技術者を急いで派遣して原因の調査をしたが、その結果は、現地でのフィルムの取り扱いや現像処理条件が、国内で考えていたことと全く異なっていたうえに、フィルム自体の品質にも問題があることが判明した。この情報をもとに、急きょ、対策品を完成させて当該クレーム品と取り換え、納入した。

このことは、海外への輸出に対して貴重な教訓を残した。すなわち、写真感光材料を輸出する場合、事前の徹底した市場調査の重要性と輸送面や荷役面など幅広い調査と対策が必要であることを教えてくれたのである。

輸出部の発足と海外拠点の設置

輸出の本格化に伴い、1956年(昭和31年)6月、輸出部を設置した。輸出部の発足によって、海外市場の開拓はさらに活発化し、1957年(昭和32年)から翌年にかけて、シンガポール・タイへの輸出を開始し、インド・韓国への映画用フィルム、あるいは、南アフリカ・フィリピンへのX-レイフィルム、香港・ベネズエラ・メキシコへのアマチュア用ロールフィルムやカメラの輸出も始まった。これらの輸出に当たっては、現地の有力な輸入業者あるいは卸業者を当社の代理店とし、原則として一国一代理店主義で海外市場の開拓を進めていった。

1950年代後半に入り、当社は、欧米先進諸国の市場開拓を積極的に目指すこととし、まず、米国およびカナダへの展開を図った。輸出増大のためには、どうしても、すでに各種光学製品や写真感光材料の大きな市場として活況を呈しているこれらの市場へ参入することが不可欠であったからである。

1958年(昭和33年)4月、専務取締役小林節太郎は、業界の視察と販路の拡大のため米国・カナダに出張し、両国に販売網をもつ有力な卸業者とカメラなど光学製品および工業用感光材料の輸出契約を取り交わした。特に光学製品に関しては、全米に販売網をもつ有力代理店が新たに当社製品を専門的に取り扱う販売会社を設立し、これによって当社光学製品の対米輸出は飛躍的に増加した。

これに伴って、同1958年(昭和33年)11月、ニューヨークに待望の駐在員事務所を設置し、よりきめの細かな市場調査やセールスプロモーション活動を開始した。

[写真]開設当初のブラジル現地法人事務所

開設当初のブラジル現地法人事務所

また、当社は、有力な輸出市場として、早くから中南米市場を認識していた。同地には、すでに1955年(昭和30年)から駐在員を赴任させていたが、将来性の豊かなブラジルに強固な地盤を築いてゆくためには、単なる駐在員事務所ではなく、現地に販売会社を設立し、強力な営業活動を展開していくことが望まれた。そこで1958年(昭和33年)8月、資本金955万クルゼイロ、うち当社出資950万クルゼイロ(約10万米ドル相当)をもって、現地法人Fuji Photo Film do Brasil Ltda.を設立した。同社は、サンパウロ市に本拠を置き、当社製品の直接輸入販売を開始した。当初はロールフィルムと印画紙が主な商品であったが、なじみのないブランドをいかに市場に浸透させるか、また、為替手当の難しさなど、数々の困難を乗り越えなければならなかった。

20数年を経た今日、当社はブラジル市場に、写真感光材料の加工工場・カラー現像所網を有する確固たる地位を築き、進出の当時に期待された大きな発展を実現しつつある。

[写真]海外向けディスプレイ[写真]海外向けディスプレイ

海外向けディスプレイ

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