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1960年代を迎えて - 貿易自由化の進展

 

1960年(昭和35年)6月、政府は「貿易為替自由化計画」を決定し、わが国は開放経済体制へ向けて大きく歩み出す。時を同じくして、当社は会長制を採用し、春木栄が会長に、小林節太郎が社長に就任する。写真感光材料の輸入は、1960年(昭和35年)4月、映画用35mm黒白フィルムを皮切りに次々と自由化され、1971年(昭和46年)1月、カラーロールフィルムを最終として、全面自由化される。また、この間、輸入品の関税率も、まず黒白製品から税率引き下げの動きが具体化する。当社では、国際競争に耐え得るように全社一丸となって品質の向上とコストの低減に取り組み、また、新規事業を積極的に推進していく。

日本経済の国際化

[写真]東海道新幹線開通式 1964年(昭和39年)10月

東海道新幹線開通式
1964年(昭和39年)10月

1956年(昭和31年)7月に発表された「経済白書」で,「もはや戦後ではない」と記されたとおり,1950年代後半に入って,日本経済は新たな展開を開始した。1956年(昭和31年)には“神武景気”,1958年(昭和33年)には“岩戸景気”と称された景気上昇局面が訪れた。この間,1955年(昭和30年)9月には,日本はGATT(関税貿易一般協定)に加入し,翌1956年(昭和31年)12月には国際連合に加盟し,国際社会に復帰したが,それと同時に国際経済社会の一員として従来の保護貿易体制を改め,貿易の自由化を実現していくことが要請されるに至った。

戦後,日本は厳しい外国為替管理のもとに輸入外貨割当制を実施し,輸入を厳しく制限してきた。それは,一つには絶対的な外貨不足によるものであったが,もう一つは,まだぜい弱なわが国の産業を厳しい国際競争から守り,国内産業の育成を図るための措置でもあった。しかし,日本からの輸出が増大するにつれて,貿易の自由化を求める声は次第に高まってきた。

こうした要請に応えて,1960年(昭和35年)6月,政府は「貿易為替自由化計画」を決定した。これは,貿易および為替取引の自由化の基本方針を定めたもので,商品別に自由化のスケジュールを定め,わが国の自由化率を3年以内に80%とする目標を掲げていた。

当時,わが国の産業の国際競争力はまだ弱く,貿易の自由化は“第2の黒船”の来航にたとえられたほどであった。しかし,日本の企業が国際的に活動し,日本経済が一層の発展を遂げていくためには,それは避けて通れないハードルであった。日本の企業としては,技術力を磨き,国際水準の良質の製品を一日も早くつくり出すことと,国際的な価格競争に耐えうるだけのコストの低減を図ること以外に道はなかった。

その後,わが国は1964年(昭和39年)4月に,国際通貨基金(IMF)8条国に移行し,国際収支を理由とする為替制限ができないことになり,また同じ月に経済協力開発機構(OECD)に加盟した。日本は国際経済の舞台に登場し,貿易の自由化は急ピッチで展開されていった。

会長に春木榮,社長に小林節太郎就任

「貿易為替自由化計画」の決定と時を同じくして,当社は,1960年(昭和35年)6月29日の定時株主総会で会長制の採用を決定し,同日の取締役会で社長春木榮を会長に,副社長小林節太郎を社長に,それぞれ選任した。

[写真]春木榮会長・小林節太郎社長就任披露

春木榮会長・小林節太郎社長就任披露

会長に就任した春木榮は,太平洋戦争下の1943年(昭和18年)に社長に就任して以来17年間,経営の最高責任者として,戦中・戦後の苦難期を乗り越え,当社をわが国写真感光材料のトップメーカーとして育て上げてきた。また,社団法人日本写真協会会長,日本特許協会会長をはじめ,社外の要職に就き,写真界をはじめ,わが国産業界の発展に貢献してきた。その後,1971年(昭和46年)6月には取締役相談役に就任し,翌1972年(昭和47年)6月には取締役を退任し,相談役に就任した。

新社長に就任した小林節太郎は,かつて株式会社岩井商店(現日商岩井株式会社の前身の1社)に勤務していたが,当社の創立に当たって,請われて入社して営業部長に就任し,創立直後の苦難期に営業の全責任を負い,顧客の開拓と販路の拡大に当たってきた。1937年(昭和12年)5月に取締役に選任され,その後,常務取締役・専務取締役を歴任し,1958年(昭和33年)6月には副社長に就任した。経済の国際化という新しい時代を迎え,社長に就任し,当社経営の重責を担うことになったのである。

小林社長は就任に当たって,全従業員に次のように訴えた。

「当社は現在,重大な段階に立っております。それは,当社の立っている環境,基盤に一大変化が起こりつつあるということであり,具体的には,貿易の自由化が行われつつあるということであります。

貿易の自由化は,交易の規模を拡大して日本経済ひいては個々の産業のより大きな発展を期待するものでありますが,その裏付けとなるものは,日本の産業の国際競争力であることは申すまでもありません。

特に,これを当社の場合にとってみますに,創業以来今日まで,政府の産業助成,輸入制限など種々の保護のもとに,外国品の入ってこない日本の市場で,国内の数社を競争相手として,極めて恵まれた状態のもとに成長発展してきたとも言えると思うのであります。

もちろん,私共はこの間にあって,当然きたるべき外国品との競争に備え,かつ輸出市場への発展を期し,製品の国際競争力の増強に不断の努力を続けているのでありますが,事実問題として貿易の自由化を考えますとき,なお,今だその対策の不備を痛感せざるをえないのであります。(中略)

国内市場の維持強化のためにも,また,当社のより大いなる発展のための輸出増進のためにも,私共は製品の国際水準化を目標に,今後さらに一段の努力をしなければならないのであります。

当社におきまして,今日ほど会社の総力を結集する必要の大なるときはないと思います。経営者と言わず従業員と言わず,問題の解決と目的達成のため真に一体となって社業のより大いなる将来の発展に備えたいと思うのであります。」

貿易の自由化と日本経済の国際化時代を迎え,断固たる決意を表明したのである。

写真感光材料の輸入自由化と関税率

日本経済の開放体制への移行の中で,写真感光材料の輸入自由化も進み,資本自由化も日程にのぼってきた。

写真感光材料は,1937年(昭和12年)日中戦争のぼっ発以来,外国品の輸入が厳しく制限されてきた。戦後になっても,輸入外貨割当制のもと,わが国全体の輸入が規制される中で,写真感光材料の輸入も厳しく制限されてきた。

しかし,主として映画用フィルムの輸入については,1954年(昭和29年)ごろから外貨予算割当が増加し,輸入は年々増大しつつあった。

写真感光材料の輸入自由化は,1960年(昭和35年)から始まった。この年4月,映画用35mm黒白フィルム,マイクロフィルムなどの黒白フィルムに輸入自動承認制(AA制)が適用され,輸入が自由化された。これを皮切りに,以降11年間にわたって,品目別に段階的に自由化されていった。

1961年(昭和36年)12月にはX-レイフィルムが,1962年(昭和37年)4月には一般用の黒白フィルムが,そして同年10月には黒白印画紙が,それぞれ輸入自由化された。しかし,この時点では,カラーフィルムおよびカラー印画紙は国産化されて日が浅く,まだ国際競争力が十分でなかったので,自由化が繰り延べられていた。

この間,当社をはじめ,国内の写真感光材料メーカーは,カラーフィルム・カラー印画紙の品質と性能の向上に全力を投入した。その結果,ようやく国産品も外国製品に対抗しうる性能に到達したものとして,1964年(昭和39年)10月にカラー印画紙とカラーシートフィルム,1969年(昭和44年)4月に映画用35mmカラーフィルム,1970年(昭和45年)4月に映画用16mmカラーフィルムが,それぞれ輸入自由化され,1971年(昭和46年)1月には一般用カラーロールフィルムも自由化された。ここに,写真感光材料は全品種が自由化されたのである。

一方,わが国の資本自由化については,1967年(昭和42年)7月に第1次自由化が実施され,次いで1969年(昭和44年)3月に第2次,1970年(昭和45年)9月に第3次と実施されたが,このときまでは,写真感光材料製造業の資本自由化は見送られてきた。しかし,その後の1971年(昭和46年)8月に行なわれた第4次資本自由化のときに,写真感光材料製造業についても,外資の割合が50%を超えない合弁会社方式のものが自由化され,次いで,1973年(昭和48年)5月,最終の第5次資本自由化で,3年後の1976年(昭和51年)5月に完全に自由化されることになった。

輸入自由化・資本自由化と並行して,写真感光材料の関税率も段階的に引き下げられた。

写真感光材料の関税率は,戦前は従量税率(輸入量を基準として一定の関税を課す)が適用されていた。しかし,戦後,1952年(昭和27年)にわが国の関税率が全面的に改正された際,従価税率(輸入価格を基準として一定の関税を課す)に改められ,印画紙25%,X-レイフィルム10%,その他のフィルム30%の関税率が定められた。

その後,1961年(昭和36年)4月,関税率が全面的に改定され,その際,X-レイフィルムの関税率が10%から20%に引き上げられ,さらに1964年(昭和39年)4月には,一般用カラーロールフィルム,8mm・16mm反転カラーフィルムおよびカラー印画紙の関税率が,国産品の保護,助成のために,40%に引き上げられた。

その後,世界経済の自由化の動きに伴い,また,国内メーカーの競争力も強まるにつれて,関税率は段階的に引き下げられていった。

1963年(昭和38年)5月から1967年(昭和42年)5月にかけて,GATT関税一括引き下げ交渉(いわゆるケネディ・ラウンド)が行なわれ,5年間で一律50%関税率を引き下げることで合意をみた。これに基づき,日本は,1968年(昭和43年)7月から1971年(昭和46年)4月まで,段階的に関税率の引き下げを実施した。その結果,映画用黒白フィルム・一般用黒白フィルムは30%から15%へ,黒白印画紙は25%から12.5%へ,それぞれ関税率が半分に引き下げられた。ただし,ケネディ・ラウンドでは,関税率引き下げによる被害の大きい品目については例外品目とすることが認められ,カラーフィルム・カラー印画紙については1971年(昭和46年)3月まで,X-レイフィルムについては1972年(昭和47年)3月まで,それぞれ関税率が据え置かれた。

国際化への当社の対応

写真感光材料の輸入の全面自由化に備えて,当社は,抜本的な対策,すなわち国際競争に耐えうる商品の開発と,生産の合理化によるコストの引き下げに全力を投入していった。

黒白の映画用フィルムや一般用フィルムから輸入自由化が始まったことでもわかるように,黒白フィルムの分野ではプロ写真関係の一部の製品を除いた大部分の製品については,当時すでに外国製品に品質上ほぼ対等に対抗しうるようになっていた。当時,最も重要な課題は,コダック社の製品に対抗できるカラーフィルムの開発と,コダック社に対抗しうる企業力を確立することであった。そして,単に国内市場を守るという消極的対応にとどまることなく,当社自らが世界の市場に積極的に打って出て,世界企業として成長しうる基盤をつくりあげることであった。

当社は,このような方針のもとに,カラー製品の研究・開発に,より一層注力するとともに,新規事業分野への積極的な進出を図り,写真感光材料メーカーから,より幅広く総合映像情報機材メーカーへと発展を目指して,多角化を推進し,企業体質の強化を図っていった。

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