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感圧紙の事業化

 

当社は、1963年(昭和38年)に、ノーカーボン紙“富士フイルム感圧紙”を開発する。その後、“お得意さまを汚さない紙”のキャッチフレーズのもと、市場開拓のために、積極的な営業活動を展開、複写帳票用紙あるいはコンピューターのアウトプット用紙として急成長を遂げる。1965年(昭和40年)には、富士宮工場内に感圧紙工場を建設、また、裁断加工体制も整備する。さらに、1969年(昭和44年)には、専用抄紙機を設置して製造体制を整える。この間、流通業者や印刷会社からなる「富士グリーンサークル」、最終ユーザーからなる「ビジネスインフォメーションサークル」を結成し、“感圧紙”の普及を図り、わが国ノーカーボン紙市場でのトップメーカーに成長する。

“感圧紙”の開発

[写真]発色剤が包まれたマイクロカプセルの顕微鏡写真

発色剤が包まれたマイクロカプセルの顕微鏡写真

ノーカーボン紙と称される複写用紙は,米国のナショナル・キャッシュ・レジスター社が1954年(昭和29年)に開発に成功したものである。2枚の紙のうち,上の紙の裏面に発色剤をゼラチンで包んだ微小のカプセル(マイクロカプセル)が塗布してあり,下の紙の表面に酸性白土などを塗布して,上から文字や線を書き込むと,その筆圧でカプセルが破壊されて発色剤が浸出し,下の紙に塗られた酸性白土などと反応して文字や線が現われるものである。

当社でも種々検討の結果,ノーカーボン紙の製造に必要なマイクロカプセルや発色剤の技術は当社の得意とする分野であり,当社独自の技術開発が可能なこと,複写帳票用紙として従来のカーボン挿入式のものや裏カーボン紙に代わって,将来有望な市場が見込めることなどの理由で,1958年(昭和33年)1月,その試作研究に着手した。

発色剤とその溶剤の合成技術や顕色剤の調液技術,マイクロカプセル化技術などの確立や品質評価法の確立,薄い紙への水性液塗布技術の研究など,多くの研究課題に取り組んだ。そして,ようやく研究完成の見通しが得られたので,1961年(昭和36年)5月,小田原工場にパイロットプラントを設置した。その後,裁断・加工技術にも改良を加えて,翌1962年(昭和37年)11月試作を完了,1963年(昭和38年)4月,“富士フイルム感圧紙”の商品名で販売を開始した。

[写真]感圧紙の原理

感圧紙の原理

[写真]感圧紙試作のパイロットプラント(小田原工場)

感圧紙試作のパイロットプラント
(小田原工場)

販路の開拓 - 「プル作戦」の展開

“感圧紙”の試作完成に伴い,1962年(昭和37年)11月,当社は営業担当部門として紙業部を設置した。紙業部は“感圧紙”のほか,今泉工場の高級上質紙の販売をも担当したが,“感圧紙”については全く新しい製品であり,ゼロから出発しなければならなかった。

当時,“感圧紙”の最大の市場と目されたのは,各種の伝票など,いわゆる帳票市場であった。この分野では,裏カーボン紙が用いられており,裏カーボン紙から“感圧紙”への切り換えを図ることに営業活動の最大のポイントをおいて顧客の開拓を進めていった。

「お得意さまを汚さない紙」 - “感圧紙”の販路の拡大に当たって,当社が打ち出したキャッチフレーズは,この一語であった。

しかし,紙業界で限られた販売ルートしかもたなかった当社がノーカーボン紙の市場に出ていくには,うたい文句だけではどうにもならなかった。“感圧紙”という新しいマーケットを形成していくには,なによりも当社自身の強力な顧客開拓努力が必要であった。

こうした市場の状況下で,マーケットの創造を目指して当社が展開したのが「プル作戦」,すなわち顧客引き込み作戦であった。まず最終ユーザーである顧客を説得して,ユーザーから印刷会社に,印刷会社から当社の販売代理店へと注文を出してもらうという作戦である。このため,最終ユーザーである各企業の帳票発注部門や帳票設計者にダイレクトメールを発送したり,講習会を開いたりして,“感圧紙”のメリットを徹底して訴えていった。

こうした努力が認められ,東京都庁や国鉄などへの大量納入も行なえるようになり,“感圧紙”を採用する顧客が次第に増加してきた。また,この間に,当社製品の販売ルートも徐々に整備・充実していった。この段階に至って,当社は,「プル作戦」とともに,紙卸商を通して流通ルートに沿って攻めていく「プッシュ作戦」を併用する方針に切り換え,さらに市場の一層の拡大と市場での地歩の向上を目指した。

富士宮工場に感圧紙工場を建設

[写真]富士宮工場に完成した最初の感圧紙工場 1965年(昭和40年)

富士宮工場に完成した最初の感圧紙工場
1965年(昭和40年)

発売以来の市場開拓努力によって,“感圧紙”の販売量は徐々に増大していった。このため,小田原工場のパイロットプラントだけでは生産が間に合わなくなり,生産能力の増強を求められるに至った。

当社は,すでに,富士宮工場でバライタ紙およびその原紙を製造していたので,紙関係の製造部門をここに集中する方針を立て,感圧紙製造の新工場も富士宮工場の構内に建設することとした。1965年(昭和40年)1月,鉄筋コンクリート平屋建新工場を完成したが,その製造能力は小田原工場のパイロットプラントに比べて調液装置が約10倍のスケール,塗布機も倍幅で約3倍の塗布スピードとなった。

広幅で塗布した感圧紙をユーザーに供給するためには,さまざまな裁断加工作業が必要となる。そこで,1965年(昭和40年)2月,資本金100万円にて,アヤセ紙工株式会社(現富士テクニス株式会社)を設立し,神奈川県高座郡綾瀬町(現綾瀬市)に工場を建設して,感圧紙の加工作業を開始した。

また,時を同じくして,紙業界の大手代理店である株式会社岡本と感圧紙の販売代理店契約を締結し,販売体制の基礎を固めた。さらに,1967年(昭和42年)12月には,当社直系の販売代理店である大化洋紙店を充実・強化するとともに,社名を富士特殊紙株式会社と改め,感圧紙販売活動の積極化を図った。

一方,生産面では,感圧紙の需要の拡大に対応して,富士宮工場に塗布機と抄紙機の増設を計画した。そして,1968年(昭和43年)9月には,第2号塗布機を完成,稼動を開始し,また,感圧紙の原紙の抄造のため,大型高性能の薄紙専用抄紙機を設置し,1969年(昭和44年)4月から,感圧紙原紙の抄造を開始した。これによって,原紙から塗布・加工までの感圧紙の一貫生産体制が確立した。

[写真]富士テクニス株式会社 1976年(昭和51年)

富士テクニス株式会社
1976年(昭和51年)

「富士グリーンサークル」の結成と新製品の発売

販売体制の整備と富士宮工場での増産体制の整備によって,“感圧紙”の生産・販売量は年々増大していった。一方,当社の発売とほぼ時期を同じくして,大手製紙メーカーのノーカーボン紙市場への新規参入が相次ぎ,市場では激しい販売競争が展開された。

こうした状況に対応して,当社は,“感圧紙”を取り扱う流通業者や印刷会社の組織化を目的として「富士グリーンサークル」を結成するとともに,最終ユーザーの組織化を目指して「ビジネスインフォメーションサークル」(BIC)を発足させ,“感圧紙”の普及と拡販を図っていった。

[写真]富士グリーンサークル発足式

富士グリーンサークル発足式

[写真]ビジネスインフォメーションサークル(BIC)の機関誌

ビジネスインフォメーションサークル(BIC)の機関誌

「富士グリーンサークル」は,“感圧紙”を主力に取り扱う代理店・紙卸商・印刷会社と当社との相互理解を図り,相互の繁栄を図ることを目的として,印刷会社を正会員とし,代理店・紙卸商・当社を賛助会員とする組織で,1967年(昭和42年)4月に発足した。「富士グリーンサークル」は,会報を発行し,“感圧紙”の商品知識についてのセミナーや工場の見学会,親ぼく会を開催するなど,積極的な活動を展開した。また,“感圧紙”の拡販のために紙卸商の占める役割が増大してきたので,「富士グリーンサークル」の中に紙卸商の商圏を軸とした核組織を構成することとし,1969年(昭和44年)3月に,紙卸商別グリーンサークルを発足させ,それぞれの紙卸商が中心となってサークルを運営することとした。

一方,「ビジネスインフォメーションサークル」は,1969年(昭和44年)4月,“感圧紙”を使用する最終ユーザーあるいは潜在ユーザーの組織化と情報提供を目的として発足させたもので,各企業や団体の帳票の管理・購入担当者やコンピューター部門の帳票担当者を対象とし,事務合理化セミナーや工場見学会,機関誌の刊行などの活動を行なった。

また,この時期,新しい市場として登場してきたのが,コンピューター関係の市場である。

コンピューターのアウトプット用紙としてのノーカーボン紙の適性が高く評価され,コンピューターの普及に伴ってノーカーボン紙の膨大な市場が形成された。当社も,このコンピューター関係市場に向けて“感圧紙”の使用を積極的にアプローチし,1968年(昭和43年)には,OCR(光学式文字読取装置)用紙とMICR(磁気読取装置)用紙を発売した。また,1967年(昭和42年)には,ブルーに発色する従来の“感圧紙”に加えて,新たに黒色に発色する“富士フイルム感圧紙ブラック”を発売し,“感圧紙”のシェアアップに大きな威力を発揮した。

さらに,1972年(昭和47年)7月には“富士フイルム感圧紙プレスブルー”および“富士フイルム感圧紙プレスブラック”を発売した。これは,従来の“感圧紙”が上用紙(A紙),中用紙(B紙),下用紙(C紙)の組み合わせでコピーをとっていたのに対し,1枚の紙の表面に発色剤と顕色剤が二重に塗布されており,表面に圧力を加えるとカプセルが壊れて発色するようにしたものであった。発色が鮮明で長期保存が可能であり,凸版印刷機やオフセット印刷機での印刷ができるなどの特長を有し,“感圧紙”の用途の拡大に大きな力を発揮した。

 
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