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こころの玉手箱

 

日本経済新聞夕刊コラム「こころの玉手箱」(2008年9月8日~9月12日)に寄稿した文章をご紹介いたします。

第1回 満州からたどり着いた佐世保の山河 ~失意の家族を優しく迎える~

(2008年9月8日掲載)

[写真]日本経済新聞夕刊コラム「こころの玉手箱」第1回

日本経済新聞夕刊コラム「こころの玉手箱」第1回

私は満州(現中国東北部)の奉天市(現瀋陽)で生まれた。日本へ引き揚げてきたのは終戦の翌年九月、七歳になったかならないかの時だった。
引き揚げ船が長崎県の佐世保港外に着いた時、甲板で滂沱(ぼうだ)の涙を流す父母の傍らで、初めて目にした日本の木々の鮮やかな緑が、幼心にも強烈に焼き付いた。
北国の満州の緑はもっと淡い色である。それとは比べものにならないくらい青々とした、眼前に広がる濃い緑であった。
佐世保港の入り口に針尾島がある。東側に早岐の瀬戸、西側に針尾の瀬戸があり、大村湾に通じる。この辺り一帯は風光明媚(めいび)な場所で、何事もなかったかのように、明るいたたずまいをみせていた。
針尾に上陸したら岸壁でひときわ大きな男の人が手を振っている。「おじいちゃんだよ」。早岐の町長をしていた祖父が出迎えてくれたのだ。しばらく祖父の家に滞在したのだが、早岐の瀬戸の急流や緑濃き山野、のどかな民家などをみるにつれ、本当に心が休まった。
高校生になって杜甫の「国破れて山河あり 城春にして草木深し 時に感じては花にも涙を濺(そそ)ぎ......」という漢詩を読んだ時、記憶が蘇(よみがえ)った。「ああ、あの時自分が目にしたものは、まさにこういうことだったのだ」。戦争に敗れて多くの人が死んだ。しかし祖国の山河は残り、失意のうちにある私たちを優しく受け入れてくれたのだった。
幼くても国が戦争に負けた時の惨めさはわかる。混乱を極め、略奪、暴動が吹き荒れた。ソ連兵が自動小銃を空に向けてダダッと連射してから家に押し入り、時計や貴金属を奪っていく。それでも父は家族をよく守ってくれた。商売をしていた父は店と住居が一緒になった洋館を持っていたが、引き払って日本へ引き揚げることになった。
無蓋(むがい)貨車に一昼夜揺られて着いたコロ島の収容所で、一ヵ月ほど船を待たされた。そこでのコーリャンの赤いおかゆと芋のつるの味噌(みそ)汁の食事には閉口した。これらの経験を経て、故郷にたどり着いた。
今でも長崎空港に着くと大村湾周辺の風光明媚さに心が休まる。高校生時代に下宿した長崎市は特に開放的で親切な人が多い。海外から様々な文化を受け入れてきたからだろう。この好ましい風土は私にとって掛け替えのないものである。

第2回 吉川英治からニーチェにいたる本 ~読書で「真の実力」養う~

(2008年9月9日掲載)

[写真]日本経済新聞夕刊コラム「こころの玉手箱」第2回

日本経済新聞夕刊コラム「こころの玉手箱」第2回

高校時代、勉強は半分くらいにして、本をよく読んだ。学校の勉強だけでは実力を養えないと直感的にわかっていた。
最初に感銘を受けたのは吉川英治の「宮本武蔵」である。享楽的な生き方を排して自己を鍛える刻苦勉励がテーマの物語だ。主人公の武蔵は、剣の道を究めて人間としての完成をひたすら目指す。大いに感化された。それまでいわば自由奔放な少年時代を過ごしてきたが、自らを律して人間を磨こうと思い立った。冬でも窓を開け、眠気を抑えて本を読んだこともあった。
ロマン・ロランの「ジャン・クリストフ」も良い本だった。ベートーベンをモデルにした主人公が様々な挫折を乗り越えて音楽家として成長していく。これにも共鳴し、怠惰な意味のない生活はしないと決心した。
東京大学に入って、今度は哲学と出会う。旧制高校の弊衣破帽の蛮カラな気風と教養主義がまだ残っていた。当時いた三鷹寮で、人生とは何か、自分は何者かを考えた。
哲学書の中で、自分の考え方にぴったり合ったのはニーチェだった。「ツァラトストラかく語りき」「善悪の彼岸」「この人を見よ」などだ。「ツァラトストラ」は何回も読んだ。人間は権力や宗教に飼いならされ弱々しい奴隷か家畜のようになっている。人間は本来、自由で強く賢く、誇り高く気高い存在だ。世の中の権威や旧体制の圧力をはねのけることで、人間本来のすばらしさが出てくる。ニーチェはそれを「超人」と呼び、同時に「神は死んだ」とも言った。
私も強くなくてはいけないと思った。真の実力が必要なのだ。なぜ社会は、多くの偽善的な価値観を持つのか。もっと自由にのびのびと生きて、正しいものは正しいと言い、かつ、行う「真の道徳」があるはずだと考えた。
大学時代にやったアメリカンフットボールは、闘魂、力、スピード、戦略、チームワークがなければできない激しいスポーツだが、自分の性にぴったりと合った。練習は痛くてつらいが、体と心を鍛えることができたと思う。そしてそれは後の人生での大きな資産になった。

第3回 中世ヨーロッパの「時祷書」レプリカ ~美しさ再現、印刷術の進歩に感服~

(2008年9月10日掲載)

[写真]日本経済新聞夕刊コラム「こころの玉手箱」第3回

日本経済新聞夕刊コラム「こころの玉手箱」第3回

世界史で最も重要な発明は何だろうか。火薬、羅針盤などが挙がるが、私は印刷術ではないかと思う。
なぜなら印刷による書物によって、特権階級が独占していた知識が一般の人たちに広まるようになったからだ。おかげで閉じ込められていた多くの人間の能力が開放されたといえる。
「ベリー公のいとも豪華なる時祷書(じとうしょ)」のレプリカを見るたびに、そんなことを思う。この本は中世ヨーロッパを代表する美しい本として知られる。フランス王シャルル五世の弟ベリー公が十五世紀初めに職人に手書きで作らせたもので、華麗な装飾を施した芸術品である。
ヨーロッパの立派なお屋敷を訪ねると、決まった時間にお祈りができるように祈祷堂がある。そのためのお祈りの言葉を記したのが時祷書である。
ベリー公の本を飾る細密画はことに美しい。王侯貴族の専有物であり、贅(ぜい)をつくした宝物だったことがよくわかる。
今会社にあるレプリカは富士フイルムが一九八四年に創立五十周年を迎えた時、スイスの総販売代理店であるクロモス社のブログリー社長から記念に贈られたものだ。スイスの優れた印刷技術によって、美しさを再現している。
印刷は、歴史の中で情報を広く世の中に広める重要な役割を果たしてきた。
もの作りにかかわる仕事で社会に貢献したいという思いで、富士フイルムに入社したのだが、私の会社生活四十五年のうち、三十七年間は、何らかの形で印刷事業部門に携わってきた。
入社当初に配属された経営企画部から、二年程度で営業に移った。以来、オフセット印刷材料の販売など、新分野の産業材料の市場開拓を担えたのは幸せだった。
印刷業の世界は、人間関係をとても大切にする。私はメーカーの印刷事業部門の営業を長くやったが、理屈で買ってもらうというより、おまえが気に入ったから買ってやろうということが多い。印刷業のその温かく素晴らしい風土は日本だけのものでなく、ヨーロッパ駐在時にわかったが、現地でも同じだった。おかげで公私ともに付き合える多くの友人を内外に得た。

第4回 セントアンドリュースで得た優勝カップ ~ゴルフも仕事も気合いが大事~

(2008年9月11日掲載)

[写真]日本経済新聞夕刊コラム「こころの玉手箱」第4回

日本経済新聞夕刊コラム「こころの玉手箱」第4回

ゴルフ歴は三十有余年、コンペでもらったカップもそれなりにあるが、イギリスのセントアンドリュースオールドコースでの優勝カップは思い出深い。
富士フイルムヨーロッパ社長としてドイツに駐在していたとき、他の日本企業の人たち二十人ほどと、セントアンドリュースにゴルフツアーをした。ゴルフ発祥の地だと思うと、力が入って、普段より飛距離も伸びた。
カップには「優勝・セントアンドリュース」と刻んであり、ちょっと格好良いと思い、社長室に置いてある。
私のヨーロパ駐在は五十六歳にして初めての海外勤務だった。何事にも真剣勝負の私は、行くからには、会社人生晩年期であったが、適当に仕事をして済ますつもりはなかった。
赴任した時、ヨーロッパで当社品のシェアがなぜ低いのか納得できなかったし、我慢できなかった。
当社製品の品質やラインアップは実質的に世界一だと思っていたのに、現地の駐在員や従業員、各国の販売代理店の人たちが、米コダックに次ぐ二番手に安住していたのだ。まず皆の意識を変えることから始まり、いろいろな作戦を考え、シェアアップを図った。
日本人はよく言えば紳士的だが、概しておとなしい。現地のビジネスマンに一方的にまくし立てられ、黙ってメモをとっている日本人社員の姿を見ることが多かった。黙っていると、こちらに主張するものがないか、納得したと思われる。
異なる意見を言ったら相手が怒るのではないかと遠慮するのは、日本人がよく犯す間違いだ。論拠のないことを強弁したら軽蔑(けいべつ)されるが、言うべきことをはっきり伝えないのは論外だ。
筋の通ったことをきちんと主張すれば、西欧人は相手を一人前の人間と認めて、尊重するようになる。
しかし格闘技ではなくても、日本人よりずっと体格のいい相手と渡り合うのはやりにくい。私は西欧人にも日本人の若い社員にも、よく「日本人は小柄だが、人間の本当に大事なものはブレインとハートだ。我々日本人はそれで勝負する」と言ってきた。ゴルフに限らず何事も気概を持って取り組むことが大切である。

第5回 中国・蘇州の寒山寺住職が書いた書 ~断固としてやる勇気 重要~

(2008年9月12日掲載)

[写真]日本経済新聞夕刊コラム「こころの玉手箱」第5回

日本経済新聞夕刊コラム「こころの玉手箱」第5回

会社の応接間に「勇気」と書いた書が掛けてある。
「勇気」という言葉は私の価値観や人生を映す原点だ。人生において決断を迫られるとき、自分の中にある「勇気」と「判断力」を信じて行う。
中国江蘇省の蘇州には富士フイルムグループの四つの工場がある。三年前に出張の折、寒山寺を訪ねた。
唐代の詩人、張継の「楓橋夜泊(ふうきょうやはく)」でよく知られたお寺である。「月落ち鳥啼(な)いて霜天に満つ 江楓漁火愁眠(こうふうぎょかしゅうみん)に対す 姑蘇(こそ)城外の寒山寺 夜半の鐘声 客船に到(いた)る」と詠まれている。
住職の秋爽さんはゆったりとした物静かな仏僧である。「何か書いてあげましょう」と言ってくれたので「勇気」をお願いした。
「勇」の字はいかにも勇気溢(あふ)れる男が肩を怒らせて頑張っている感じがする。「気」は文字通り勇壮な空気が溢れ出しているように見える。実に良い字だ。
ドイツに駐在していたころ、統計では年間約千九百時間働く日本人と比べ、ドイツ人は約三百~四百時間も少ないのに、経済的な成果がほとんど同じなのはなぜだろうと考えた。
理由の一つはドイツ人がより戦略的だということである。戦略とは効果を効率的に得るための仕組み作りともいえる。ただ勤勉に一生懸命やって勝つのとは異なる。もう一つはドイツ人はやるとなったら即時、かつ断固としてやる。日本人は一般的に戦略に頼るよりむしろ、長く働くことでカバーする傾向がある。また慎重を期すためスピード感に欠ける。日本人にも良い点はある。大義のためなら自己犠牲を厭(いと)わない。疲れたからとか私生活が大事だからといって背を向けず、献身的に頑張る。これは日本人独特の、世界に類例のない優れた、気高い特質だ。主としてこのお陰で、明治維新以来、日本は発展してきたのだろう。
この日本人が持つ優れたDNAを生かし、戦略性を強化すること、勇気をもって果断に変革していくこと、スピードを重視すること。それが二十一世紀の益々(ますます)激しく変革する、競争がさらに激化する環境の中で日本人が生き抜いていく上で必須である。一経営者として強くそう思っている。



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