スチルカメラで独自の分野を
― カメラの自動露光化とコンパクト化
プロ用カラー市場への進出
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“フジカシングル-8”の開発

 当社は、8mm市場を拡大するために、全く新しいマガジン方式の8mmシステムの開発にチャレンジする。開発途上で計画の大幅な変更を余儀なくされるが、1965年(昭和40年)5月、当社は、PHOTO EXPOにおいて、新しい8mmシステム“シングル-8”システムを発表する。フィルムをマガジン化し、だれでも手軽に8mm映画を楽しめるようにした“シングル-8”システムは、画期的ホームムービーシステムとして絶賛を博し、“FUJI FILM”の名を高らしめる。発売に当たっては、“マガジン・ポン、私にも写せます”をキャッチフレーズに、8mm映画の楽しさを訴え、需要の開拓を図っていく。また、海外供給体制やラボ網を整備し、海外市場にも出荷を開始する。

“シングル−8” PHOTO EXPOでデビュー

フジカシングル−8P1
フジカシングル−8P1
 1965年(昭和40年)5月1日,ニューヨークコロシアムでPHOTO EXPO(International Photographic Exposition)が開幕された。ここに,当社は,社運をかけて開発した新しい8mmシステム“フジカシングル−8”システムを展示して世界の注目を集めた。なかでも,コンパクトなカメラ“フジカシングル−8P1”と,8mm映写機“フジカスコープM1”,同“M2”,画期的なアイデアのマガジン方式“シングル−8フィルム”は,同時に展示されたコダック社の新製品“スーパー8”と対比されて,多くの参観者の関心の的となった。そして,「ニューヨークタイムズ」をはじめ,「ニューズウィーク」「ポピュラーフォトグラフィー」などの新聞雑誌は,こぞって“シングル−8”を取りあげ,そのアイデアに拍手を惜しまなかった。

8mm小型映画市場への進出

シングル−8フィルム
シングル−8フィルム
フジカスコープM1
フジカスコープM1
フジカ8T3
フジカ8T3
 “シングル−8”システムが生まれるまでには,小型映画の長い前史と,当社の長期にわたる開発努力があった。
 小型映画の歴史は,1920年代から1930年代にかけて始まっている。この間,さまざまなサイズのフィルムが登場した。この中でも,17.5mm,16mm,9.5mmの3つの幅のフィルムが比較的多く使用された。そして,1932年(昭和7年),コダック社が“シネコダック8”を発売するに及び,8mm時代の夜明けを迎えることとなった。“シネコダック8”は,その後のダブル8システムのはしりで,幅16mm,長さ7.6mの両側せん孔フィルムを用い,片側を撮影後,スプールを上下入れ換えて反対側を撮影し,現像終了後,中央で裁断,両者のフィルムをつないで1本の8mm映画とし,それを映写機で鑑賞するという方式であった。同じころ,アグファ社でも8mmフィルムとカメラを開発し,また,ベル&ハウエル社などがカメラを発売した。その後も,各社がカメラを開発し,フィルムもスプール巻き・マガジン入りなど種々の方式が生まれたが,結局16mm幅のダブル8システムのスプール巻き方式が主流となっていった。
 わが国でも,戦前からの8mm映画愛好家は,戦争による中断の後,1950年代に入ってから再び愛機を使って自作映画の製作にいそしみはじめ,また,アマチュア用スチル写真ブームの到来につれて,新たに8mm映画にも関心をもつ人びとも現われてきた。
 こうした状況に対応して,1953年(昭和28年)1月,当社は,ダブル8システム用“ネオパン反転8mmフィルム”(感度ASA40)を発売,1957年(昭和32年)3月には“フジカラー8mmフィルム”(外型反転方式,感度ASA10)を発売した。さらに,同年8月にはダブル8用8mm映写機“フジスコープM−1”を,翌1958年(昭和33年)10月には磁気録音再生方式の映写機“フジスコープサウンド”を,それぞれ発売し,その後も映写機の機種を整備し,性能の向上を図っていった。
 しかし,8mm市場へ本格的に参入するためには,8mmカメラの開発が不可欠である。そこで,1960年(昭和35年)11月,ターレット方式の“フジカ8T3”を,続いて翌1961年(昭和36年)には被写体の明るさに応じて絞り値を自動的に決める“フジカ8EE”と4倍ズームの“フジカ8Z4”を,1964年(昭和39年)には4倍ズームの高級機“フジカ8ズームデラックス”を,それぞれ発売して製品ラインの充実を図っていった。

“シングル−8”開発の構想

 ダブル8システムのスプール巻き方式は,カメラヘのフィルム装てんや途中の掛け換えが煩雑で,時にはスプールからフィルムが外れて,せっかくのシャッターチャンスを逃がす場合もあり,フィルムの裏撮影・片側撮影・二重撮影などの失敗が避けがたかった。このため,8mmフィルムの需要層は一部に限られ,8mmカメラの普及率は,1960年(昭和35年)ごろで,都市部でもわずか2%前後にとどまっていた。
 したがって,8mm映画市場の需要を開拓するには,フィルムの装てんや取り外しの操作を簡易化することが最も重要な課題であり,当社は,そのためには,初めから8mm幅のフィルムを使うシステムを開発することが最も望ましいと考えた。そして,この考え方に立って,新しいシステムを研究開発することとし,1959年(昭和34年)には,研究グループを組織して検討を開始した。
 研究開発上の最初のテーマは,マガジン方式をどうするかであった。
 研究グループには,かねてからカメラの技術開発に関して提携していた甲南カメラ研究所にも参加を要請した。同社は,研究討議の過程で,8mmマガジンの新方式に関するアイデアを提案した。
 この提案を参考として,再三にわたる試作・検討を重ねた結果,1963年(昭和38年)7月,フィルム走行上無理のない,二軸による直列に巻き込むマガジン方式を採用することとした。
 フィルムベースは,当初はTACべースを用いて研究を進めていたが,カメラをコンパクト化するために,フィルムベースの厚みを従来より薄くする必要があり,また,フィルムベースを薄くすることによる現像時や映写時の強度低下の不安をなくすため,計画の途中でPETベースを使用することに変更した。
 これらの研究を進めていく過程で,研究開発体制も強化していった。社内の関連部門はもちろんのこと,富士写真光機,富士天然色写真,富士板金工房の各社も含めた,富士フイルムグループの総力を結集した開発体制がとられた。
 1964年(昭和39年)7月までには,黒白フィルム・カラーフィルムの品質規格を決定し,デザイン,加工・包装,現像,マグネオストライプなどの準備を順次進め,並行して耐寒テストその他各種の信頼性テストを実施して,商品化に向けて万全を期した。
 こうして,新システムの構想は次第に固まっていったが,これを実現し,新しい8mmシステムを国際商品に育てるためには,新システムの規格を広く国内外のカメラメーカーやフィルムメーカーと共通のものとしていく必要があった。そこでまず,1962年(昭和37年),キヤノン,ヤシカ,小西六写真工業の3社に協力を求めた。次いで,翌1963年(昭和38年)5月,コダック,アグファ,ベル&ハウエルの3社にも呼びかけを行なった。
 これに対して,コダック社からは,目下その計画はなく,関心は持たないから独自に進められたいという趣旨の回答が寄せられた。一方,アグファ社からは同社でも独自のマガジン開発を進めているが,富士フイルムのものが良ければ,それを採用したいとの回答が寄せられた。
 この結果,1964年(昭和39年)3月,当社は,国内メーカーに対し当社の新8mmシステムを採用して商品化を進める場合は,当社が中心となって共同開発を進めること,および,当社の所有する新8mmシステムに関するすべての特許の実施権を無償でカメラメーカーに提供することを発表した。そして,同年3月から10月にかけて,当社は,国内カメラメーカー13社およびアグファ社と,共同開発に関する基本契約を締結した。
 この年5月,当社はこの新システムの名称を“ラピッド−8”とすることに内定し,同年10月に開催予定の東京オリンピック大会を目標に発売すべく,生産を開始した。
 カメラの生産も軌道に乗り,フィルムも量産化に入ろうとしたとき,突如,計画を根底からくつがえす情報がもたらされた。これまで沈黙を守ってきたコダック社が,新8mm方式“スーパー8”を発表したのである。
 “スーパー8”は,世界の8mm市場をほぼ独占してきたコダック社が,満を持したように発表に踏み切ったシステムだった。フィルムをマガジン化するという考え方は当社と同じであったが,マガジンの形式は全く異なっていた。その上,1コマの面積は,従来の8mmフィルムや当社の“ラピッド−8”のほぼ50%増しだった。
 当社は,これまでのダブル8システムを使用していた8mmユーザーの便宜のために,既存の映写機でも映写できるようにという考え方に立って,“ラピッド−8”の画面サイズを従来のダブル8と同じく4.37mm×3.28mmとしていたのに対し,“スーパー8”では5.36mm×4.01mmと大型化を図っていたのである。
 発売予定日を目前に控えてこの報に接し,当社の内では,計画どおり“ラピッド−8”の発売に踏み切るか,あるいは“スーパー8”に追随すべきか,意見が分かれた。しかし,“スーパー8”が一度世に出れば,世界市場におけるコダック社の位置からしても,近い将来,“スーパー8”の画面サイズが国際標準になるであろうことは想像に難くなかった。また,提携メーカーとの協調関係にも配慮する必要がある。最終的に,同年8月,当社は,“ラピッド−8”計画を中止して,フィルムサイズをコダック社の“スーパー8”に合わせて新システムの開発を進めるという決断を下した。これによって,東京オリンピックという8mm市場を開拓するうえでの千載一遇の機会を目前に,当社は“ラピッド−8”の発売を中止するとともに,発売のために準備した全製品の廃棄に踏み切ったのである。

“シングル−8”の誕生

 “ラピッド−8”計画を中止した当社は,新システムの開発を目指して再出発した。再出発に際しては,カメラおよびフィルムの機構および品質を,現在予測し得る最高の商品とすべきことを目標とした。カメラ機構は,当社がこれまで“ラピッド−8”として開発してきた新マガジン方式を基本とし,画面サイズにコダック社の規格を採用し,これによって,“スーパー8”を上回る新システムとした。
ダブル8フィルム
ダブル8フィルム
シングル−8フィルム
シングル−8フィルム
 フィルムについては,画面サイズを拡大すると同時に,品質のレベルアップ,とりわけ映像のシャープネスを向上するために,写真乳剤の改良にも取り組んだ。工場の製造設備の改造も急いだ。あらゆる部門をあげて新計画の実現を急いだ。
 ところが,同年10月になって,当初共同で“ラピッド−8”システムを採用することにしていたアグファ・ゲバルト社から,ヨーロッパの有力8mmメーカーはいずれもコダック社の“スーパー8”システムを支持しており,当社の新システムのライセンスを得ることに興味を持たないこと,したがって,当社の新システムに“ラピッド−8”の名称を使用することに欧州各メーカーから合意を得ることが不可能な旨の連絡がもたらされた。
 そこで当社は,この新システムの名称について種々検討を行ない,“シングル−8”と呼ぶことを決定するとともに,“ラピッド−8”共同開発契約を結んだ国内グループ13社にその旨を連絡し,あわせて欧州事情を説明した。そして,“シングル−8”システムを一日も早く完成し,国際市場に積極的に乗り出すことを改めて決意したのである。
 かくして,関連会社を含む富士フイルムグループの総力をあげた努力が続いた結果,“シングル−8”は1965年(昭和40年)4月,発売の運びとなった。
 発売時に整備された製品は,固定焦点レンズ付き8mmカメラ“フジカシングル−8 P1”1機種,映写機2機種(サイレント方式の“フジカスコープM1”と,録音テープと同調する方式の“フジカスコープM2”)のほか,フィルムは,カラー反転フィルム(デーライトタイプ,感度ASA25)および黒白フィルム2種類(感度ASA50およびASA200)であった。フィルムは,いずれも1巻15.25m巻き,現像は,当社の指定現像所で行なうこととし,フィルムの販売価格は現像料込みで設定された。
 “シングル−8”システムの開発は,世界の写真市場に当社の名をクローズアップさせるうえで大きな意味があっただけでなく,世界の小型映画の歴史にとっても意義深かった。この開発に対し,1965年(昭和40年)5月,世界最大の写真雑誌「ポピュラーフォトグラフィー」誌は,世界の写真業界の進歩に貢献した人たちの功績をたたえるべく設定した「ポピュラーフォトグラフィー賞」の受賞者に,当社社長小林節太郎を選定した。
 また,1969年(昭和44年)6月開催されたPHOTO EXPO'69で,米国の写真業界有数の業界誌「フォトグラフィック・トレイド・ニュース」を刊行しているPTN社から,シングル−8システムをたたえる賞はいを受けた。

市場開発の推進と国内外販売体制の強化

フジカシングル−8のCM
フジカシングル−8のCM
 “シングル−8”は,まず,国内市場で発売した。発売に際して,当社は,幅広く新規需要層を開発してホームムービー時代を現出することをねらいとし,あわせて,教育用・業務用の利用分野も積極的に開発することを目標に,組織的に宣伝活動を進めた。ホームムービーの訴求対象は,家族ぐるみであるが,特に主婦層に重点を置いたマスコミ広告を打ち出した。
 テレビの画面で,誰にも容易に撮影できることを強調して「マガジン ポン! わたしにも写せますゥ」と語りかける,商品機能をひと口で言い当てた言葉は,一つの流行語となって「フジカシングル エイ卜」の軽快なメロディとともに家庭の茶の間に急速に浸透していった。
 一方,発売と同時に,全国のカメラ販売店の中から,“シングル−8”の販売を重点的に推進する販売店を「フジカシングル−8店」として設定して,ここを拠点に,店頭宣伝・8mm講習会などを開催し,販売促進を図った。
 また,1966年(昭和41年)12月には,シングル−8の愛用者を対象とした「シングル−8友の会」を設け,機関誌の刊行や,タイトル・編集サービス,映画作りのアドバイス,あるいは講習会の開催など地道な普及活動を展開し,ユーザーの組織化と需要の拡大を図っていった。以来,今日まで,この「シングル−8友の会」の活動は,8mmフォトコンテストと並んで,ユーザーと当社とを結び付ける大きな役割を果たしてきた。
 “シングル−8”の販売促進活動の一例として,「フジカフェア」がある。これは,1970年(昭和45年)ごろから,当社が,特約卸店・カメラ販売店と一体となって各地で開催したもので,来場客に8mmムービーの理解を深めてもらい,新しい顧客をつくり出すユニークな販売促進施策として成果をあげた。
 一方,国内向け発売と並行して,“シングル−8”システムを海外市場にも導入する準備を進めていった。
 1965年(昭和40年)5月にニューヨークで開かれたPHOTO EXPOで好評を博したとはいえ,海外市場に導入するためには商品の円滑な供給体制を確立し,また,現像処理体制やカメラのアフターサービス体制を整備しなければならなかった。
 “シングル−8”の現像処理は,“スーパー8”とは異なるシステムのため,独自の処方で現像しなければならない。当社は,米国市場ではニューヨーク州ロチェスターの,ヨーロッパ市場は西独デュッセルドルフの,それぞれ特定ラボに“シングル−8”専用の現像処理ラインを設置して,現地現像処理体制の整備を進めていった。
 こうして,海外市場への導入準備もようやく整い,国内発売のほぼ1年後,1966年(昭和41年)3月,当社は“シングル−8”の海外向け出荷を開始した。
 その前後,1966年(昭和41年)3月,クリーブランドで開催された第42回MPDFAショー,同年4月,ニューヨークで開催されたインターナショナル・フォトグラフィー・フェア,同年10月のフォトキナ'66などで,積極的に“シングル−8”をPRした。
 発売後,“シングル−8”は,そのコンパクトさと品質の良さが認められ,米国およびヨーロッパのアマチュア写真市場で着実に販売を伸ばしていった。そして,“FUJI FILM”を世界のブランドとして認識させるとともに,当社が海外のアマチュア写真市場へ本格的に進出するための突破口として,貴重な役割を果たした。
機関誌マイシングル−8 シングル−8の新聞広告 朝日新聞 1967年(昭和42年)3月 週刊文春に連載したフジカシングル−8広告 シングル−8の海外向け宣伝物
機関誌マイシングル−8 シングル−8の新聞広告
朝日新聞
1967年(昭和42年)3月
週刊文春に連載した
フジカシングル−8広告
シングル−8の海外向け宣伝物


“シングル−8”のズーム化と高機能化

 発売後の“シングル−8”システムは,順調に伸びていった。発売当初は,カメラは,固定焦点レンズで,撮影コマ数も毎秒18コマだけの“フジカシングル−8 P1”1機種で,映写機,フィルムとも最小限の品種をそろえただけであったが,より高度な映画づくりを楽しみたいというユーザーの要望に応え,また,8mm映画の用途を拡大するために,逐次,カメラ・映写機・フィルムの品種整備を図っていった。
フジカシングル−8P300
フジカシングル−8P300
フジカシングル−8Z600
フジカシングル−8Z600
 カメラについては,発売した年の10月に,3倍ズームレンズ付きの“フジカシングル−8 Z1”を追加し,また,このシステムの基本となったPタイプにも,1967年(昭和42年)7月に,3倍ズームレンズ付き“P300”を発売した。また,高級型のZタイプについても,その後,高倍率化・ズーミングの電動化・露光の自動制御化,あるいはスローモーション撮影機能を付加するなど,機能の向上を図っていった。1966年(昭和41年)10月には,4倍ズーム付き“Z2”を,1968年(昭和43年)11月には,TTL式(Throuth the Lensの略,レンズを通過した光をカメラ内部の受光体で測光する方式)EE機構で6倍ズームレンズ付き電動機“Z600”を,そして,1970年(昭和45年)4月には,スローモーション機構を付加した4倍ズームレンズ付き“Z450”を,それぞれ発売した。
 一方,映写機については,撮影した8mmフィルムの映写を音付きで楽しむために,1965年(昭和40年)12月,磁気録音式サウンド映写機“フジカスコープSM1”,同“SM2”を発売した。また,富士天然色写真株式会社で,現像済みの“シングル−8”フィルムにマグネオストライプ用磁性体の塗布の受注を開始した。
 次いで,サイレント機・サウンド機とも,フィルム装てんの自動化,映写速度の自動変更など,操作機能の改良を重ね,また,サウンド機については録音方式の改良を図った。そして,1969年(昭和44年)12月には,テープの走行速度でモーター速度を調節する,いわゆるFTS(Film Tape Synchronization)方式を採用した“フジカスコープMG90”を発売した。同機は,F1.0 25mmの明るい大口径レンズ付きで,1,300ルクスのハロゲンランプを採用して大映写も可能としたほか,スローモーション映写や動作分析用として,1コマ送りが順転・逆転の両方向に使える機能を有した高級サウンド映写機であった。
 フィルムの面では,1967年(昭和42年)6月,“フジカラーRT50”(タングステンタイプ,感度ASA50)を発売し,1970年(昭和45年)3月には,35mm判カラーフィルムと同様に,8mmカラーフィルムもフィルム価格から現像料を分離し,フィルムを購入しやすくした。(8mm黒白フィルムについては,その前々年に分離した。)
 “シングル−8”システムの優れた特長は,当社の販売普及対策と相まって,これまで8mm映画に無関心であった人びとにも興味を呼び起こし,シングル−8カメラの販売は着実に増加していった。


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