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| 1. | 写真フィルム国産化へのチャレンジ |
| 第1次世界大戦後、1919年(大正8年)誕生した大日本セルロイド株式会社の森田社長は,セルロイドの新しい需要先として、写真フィルム、映画用フィルムの将来性に着目するとともに、その国産化を社会的責務であると考える。大日本セルロイドは、まず、フィルムベースの研究から着手するが、写真フィルムは、わが国においては全く未開発の分野であり、一時は米国コダック社との提携も考慮する。しかし、コダック社の拒否回答で、自力による開発を決意、1926年(大正15年)「フィルム事業自立計画」を決定する。また、写真乳剤の研究を進めるため、これまで写真用乾板の工業化を進めていた東洋乾板株式会社と提携する。 |
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| 2. | フイルム試験所、写真フィルムの試作に成功 |
| 写真フィルムの事業化を決意した大日本セルロイドは、1928年(昭和3年)、「フイルム試験所」を創設し、写真フィルム工業化のための製造研究に着手する。フィルムベースの製造、写真乳剤の研究など、幾多の問題が山積しているが、悪戦苦闘のうえそれらの問題を一つ一つ解決し、写真フィルム国産化という大目標に一歩一歩近づいていく。そうした折、今度は、コダック社から写真フィルム事業の共同経営の企図が持ち込まれるが、不調に終わり、あくまでも自主開発を目指す。1930年(昭和5年)には、東洋乾板で行なっていた写真乳剤研究もフイルム試験所に移し、本格的研究を開始する。そして、1932年(昭和7年)、映画用ポジフィルムの試作に成功する。 |
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| 3. | “豊富な良質の水”と“きれいな空気” ― 箱根山ろく南足柄に大工場を |
| 映画用フィルムの試作に成功した大日本セルロイドは、1932年(昭和7年)3月、「フィルム・乾板・印画紙事業計画」を決定し、写真感光材料工場の建設に乗り出す。写真感光材料の製造のためには、何よりも“大量の良質の水”と“きれいな空気”が不可欠で、工場適地を求めて広範囲に踏査し、結局、神奈川県西部箱根外輪山のふもとに位置する南足柄村(現南足柄市)に決定する。南足柄村でも、村の発展のために工場の進出を歓迎、約10万m2の用地買収も順調に進み、直ちに建設工事に着手する。1933年(昭和8年)12月には、フィルムベース工場、フィルム工場、乾板工場、印画紙工場を主とする一大工場群が完成し、相次いで試運転に入り、操業開始に備える。 |
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| 4. | 総合写真感光材料メーカー 富士写真フイルム株式会社の誕生 |
| 足柄工場の建設と並行して、大日本セルロイドは、写真フィルム国産化事業の困難さを訴え、政府に助成措置を申請する。商工省は、この申請を認め、映画用フィルムの製造奨励金として、総額120万円を交付することを決定する。一方、大日本セルロイドは、足柄工場の操業開始に当たって、写真フィルム事業を独立させ、新会社として運営することを決定する。かくして、1934年(昭和9年)1月20日、新会社の創立総会が開催され、資本金300万円をもって「富士写真フイルム株式会社」が誕生する。同年6月には東洋乾板を統合し、ここに、映画用フィルムなど写真フィルムをフィルムベースから一貫製造するとともに、乾板、印画紙の製造を行なう総合写真感光材料メーカーがスタートする。 |
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| 5. | 経営の危機 ― 淺野社長の悲そうな決意 |
| 新会社発足直後、外国製品の値下げや映画界の「国産フィルムボイコット声明」によって、当社は大きな打撃を受ける。このような情勢の中で、足柄工場は操業を開始し、1934年(昭和9年)4月、映画用ポジフィルム、乾板、印画紙を初出荷する。しかし、いずれも、品質上の問題から販売は難航する。当社は、マウエルホフ博士を招へいして写真乳剤の改良に努める一方、生産を一時ストップして映画用ポジフィルムの改良に当たる。しかし、創立以来4期連続の大幅赤字で、当社は危急存亡の危機に立たされる。この時、淺野社長は、「自分は、この写真フィルム工業を生涯の事業として、あくまでやり抜く決意であるから、志を同じくする人は、自分と運命をともにされたい」と悲そうな決意を披れきする。 |
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| 6. | 「品質第一主義」を貫く |
| 企業存亡の瀬戸際に立たされた当社は、その中で“品質がすべてを決定する”、“全社員が一つになって事に当たれば困難を克服できる”という教訓を得る。そして、全社一丸となって製品の品質改良に取り組んだ結果、1936年(昭和11年)、新しいフィルムベースによる映画用ポジフィルムを完成する。さらに、映画用ネガフィルム、ロールフィルム、X−レイフィルムなど、相次いで市場に送り出す。これら新製品の発売によって、業績は一挙に好転し、創立以来7期目の1937年(昭和12年)4月期決算で累積赤字を一掃、初の配当を実施して株主に報いる。さらに、同年5月には資本金を1,000万円とする第1回の増資を決議し、足柄工場の大拡張を実施し、総合写真感光材料メーカーとしての業容を整える。 |
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| 7. | 日中戦争のぼっ発と戦時体制への移行 |
| 1937年(昭和12年)7月、日中戦争がぼっ発し、わが国は戦時体制に移行する。経済統制が実施され、写真感光材料の輸入が大幅に制限される。そのため、国内メーカーの市場が拡大し、当社も需要増に対処する。その後、日中戦争が長引くにしたがい、統制はますます厳しくなり、写真需要は停滞してくる。写真感光材料業界では、1941年(昭和16年)には、日本写真感光材料統制株式会社が設立される。この間、当社は、海外市場の開拓に注力し、満州(中国東北部)および中国大陸の市場へ進出する。一方、従業員の増大に伴って、福利厚生、従業員教育の充実を図る。産業報国会を結成し、時局に対応する。 |
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| 8. | 原材料の自給化 ― 小田原、川上、今泉工場の設立 |
| 写真感光材料の原材料は、高度の品質のものが要求され、かつ、企業秘密に属する部分が多いため、自家製造するのが理想的である。また、わが国の戦時体制への移行に伴い、原材料の海外からの調達は次第に困難となる。当社は、セルロースナイトレート、乾板ガラスなどの主要原料について、国産メーカーから供給を受ける。一方、原料薬品製造のため、1938年(昭和13年)、小田原工場を建設したのを手はじめに、川上工場 (ゼラチン工場)、今泉工場(バライタ紙用原紙工場)を建設し、自給化を進める。しかし、日中戦争の長期化に伴い、バライタ紙用原紙の生産はできなくなり、今泉工場は、地図用紙などの製造に当たる。 |
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| 9. | 研究所の設立と天然色写真の研究 |
| 写真化学の分野においては、世界の有力メーカーは、独自の研究所を設け、研究開発にしのぎを削っている。当社も、長い歴史を持つ海外の先進企業に追いつくために、早くから、独自の研究所の設立の必要性を痛感し、一応の経営の基礎が確立した1939年(昭和14年)、研究所を設立する。研究所は、写真乳剤の研究、天然色写真の研究、フィルムベースの研究、合成薬品の研究などに取り組む。天然色写真の研究では、モザイクスクリーン方式と、多層発色現像方式の研究を進める。そして、バイパック乾板、転染式カラー印画法、二色方式天然色写真フィルムなどを試作、来るべきカラー写真時代の基礎を築く。 |
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| 10. | 光学ガラス、レンズ、光学機器への進出 |
| 当社は、写真感光材料メーカーとして出発したが、いずれはカメラの製造をも行ない、総合写真工業会社として発展することを目指していた。そして、写真フィルム分野で基礎をほぼ確立した1940年(昭和15年)3月、光学ガラスから、レンズ、カメラまでの一貫製造を目指して、小田原工場内に光学ガラス溶融工場を建設する。しかし、折からぼっ発した太平洋戦争によって、民生用カメラの製造は不可能となる。しかし、軍用光学機器製造のため光学ガラスの需要が急増、当社は増設に次ぐ増設で需要に対処する一方、既設の光学機器メーカーを傘下に収め、また、富士写真光機株式会社を発足させる。これらは、戦局の激化に伴って、すべて軍用光学機器の生産に充当される。 |
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| 11. | 日米開戦 ― 太平洋戦争下の対応 |
| 1941年(昭和16年)12月8日、日本は太平洋戦争に突入する。戦時体制のもと、統制が強化され、当社の民需用の生産は次第に低下するが、一方、軍需が激増し、増産に追われるようになる。このため、1943年(昭和18年)8月、資本金を2,500万円に増資することを決議し、工場拡張工事に着手する。しかし、戦火は、次第にわが国周辺に接近し、資材不足と、度重なる空襲によって、小田原工場はじめ各地の営業所が被災する。軍当局の要請で、生産設備の一部を満州(中国東北部)に移設する計画を立て実行に移すが、1945年(昭和20年)8月、ソ連の参戦により満州移設計画を中止する。そして、8月15日、終戦を迎えて、全工場の操業を停止する。 |
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