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| 死ぬまで写真家でいたいと思ったときに、 ファッション誌を彩る、きらきらと華やかなモデル達の微笑。NEWS WEEKの表紙を飾る、戦場で銃を構える兵士の横顔。そしてライフワークとなる、自分の祖父のあらゆる表情を長い時間をかけて追った作品群。もはや表現形態は写真だけに留まらず、雑誌の出版や映画制作・監督をもこなす写真家・若木信吾さん。そのエネルギッシュな活躍はいつも刺激的だ。写真を撮り始めたきっかけを辿れば、それは小学生の時だという。 「小学生の頃から、遠足や運動会で同級生の写真を撮っては学校で売ったりしてました。売れた費用でまた撮影してプリントする、そのやりくりもちゃんと考えながらやってました。中学生ぐらいになって、写真雑誌でフォトコンテストの存在を知って。最初は賞金目当てだったんだけど、雑誌に自分の写真が載るということの衝撃と快感にハマッたんですね」 あまりにも早い、天職との出合い。そして若木さんにとってもうひとつ重要な“運命の出合い”があった。祖父・若木琢次さんを撮るという、ライフワークとの出合い。 「写真の練習のために撮りはじめたことが始まりでした。家に帰ればおじいちゃんがいつもいるから、じゃあ撮らせて、みたいな。特に人物写真にこだわってたということもないんです。子どもだったし、田舎に住んでいたからいろんな写真を見る機会って少なくて、『風景写真は外国のスゴイ山とか撮らないといけない、自分には無理』とか勝手に思いこんでたってだけで」 「高校生くらいになって、80年代のモダンなアメリカの広告写真とかが物凄く好きになって。あんな夢のような世界、綺麗でかっこいい写真が撮りたいと思ってアメリカに留学しました。そこで、たくさんの写真家の作品に触れた時に、自分の好きな写真が『カメラマン本人のルーツを追ったもの』だということに気付いたんです」 アメリカに滞在後も、ずっと撮り続けていた琢次さんの写真。2年前に他界したその時まで撮影は続き、作品は後ろ姿や寝顔、時には姿すらない、琢次さんの部屋や持ち物、手製の農機具にまで被写体となった。それをまとめた『TAKUJI』『young tree』『T』といった写真集には、カメラを通して琢次さんに向けられた若木さんの穏やかなまなざしがある。 「最初の頃は、そういった広告写真のスタイルを真似て、ポーズをとらせたりした写真が多かったですね。でも、そのうちありのままの姿を撮るようになっていきました。自分の身内だからか、老人を撮っていても、老いや命がといった“厳しさ”が無いんですよ。アーティストとしての作品、というより記録的な意味合いが強い。でもそれでいいって自然に思えたし、そう思える対象に出会えた自分はカメラマンとして幸せだとも思ってます」
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