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戦後の再建整備

 

敗戦というかつて経験したことのない事態の中で、1945年(昭和20年)9月、当社は、全従業員をいったん解雇する。その後、企業規模を縮小し、事業再開に必要な要員を再採用して、再出発をする。1945年(昭和20年)10月、占領軍当局の映画用フィルム生産再開の指示を受けて、足柄工場で生産を再開、翌年初めまでに、各工場とも生産を再開する。操業再開後、新しい勤務制度を確立し、新たに発足した労働組合と労働協約を締結する。この間、特別経理会社の指定、過度経済力集中会社の指定などを受け、企業の自由な活動に制約を受けるが、映画用フィルム、X-レイフィルムの増産要請の中で、生産活動は順調な回復を示し、企業の再建整備を実現する。

戦後の再出発

[写真]焼野原と化した首都東京

焼野原と化した首都東京

1945年(昭和20年)8月、太平洋戦争に敗れ、連合国が日本を占領した。占領開始とともに、連合軍総司令部(GHQ)は、占領政策を遂行するため、やつぎ早に指令を発し、わが国の政治経済体制の変革を迫った。

大部分の都市は焦土と化し、被災者は廃きょにあふれた。工業生産諸施設もその大半が被災し、生産するための資材も燃料も欠乏していた。物質不足、とりわけ食糧不足は深刻で、インフレは急速に進んでいった。敗戦というかつて経験したことのない事態の中で、国民は、その日その日の食糧を求めて、過酷な生活を続けざるを得なかった。

このような情勢のもとで、生産を停止したままの当社の将来はどうなるのか。戦時中軍需会社に指定されていた当社に、果たして生産の再開が認められるのかどうか全くわからない状態で、このままいつまでも多くの従業員をとどめておくわけにはいかなかった。

戦時下の生産遂行のため働き続けた従業員を解雇することは忍びがたいものであったが、他に道がなく、熟慮のすえ、やむを得ず、終戦の翌月、9月半ばに全従業員を一斉に解雇する措置をとった。

そのころ、商工省当局と日本写真感光材料統制会社の幹部との懇談会が行なわれた。その席上、商工省側から、本来平和産業である写真工業の操業再開については、にわかに楽観できないが、決して悲観材料のみではないとの見解が伝えられた。

この見解によって、事業再開について、わずかながらも期待がもてるようになったので、全員解雇した従業員の中から、一定の基準により選考のうえ、その4割に当たる1,492名を10月1日付で再採用し、事業再開の準備を進めることとした。なお、再採用予定者の中には復帰を望まない者もおり、実際に再開したときの従業員数は、1,400名余りであった。

1945年(昭和20年)10月1日、事業再開の日を迎え、春木社長は、次のように再出発にかける決意を述べ、全従業員の協力を求めた。

「占領下にあって、自由を失い、状勢判断の資料を欠いているわれわれとしては、会社が今後どうなるか、確たる見極めはつかない。しかし、あくまで写真工業を継続したいと念じ、規模を縮小して、操業を再開することにした。先日の商工省との懇談会では、写真感光材料の製造は、楽観はもとより許されないが、悲観のみを要しないということであったから、細々とは続けられると思う。しかし、正式な許可を得ているのではないから、あるいは最悪の事態に陥って、早く会社を去った人のほうが、今日再採用となった人よりも、幸せだったという結果にならないともかぎらない。しかし、原料から写真フィルムを製造して、国内の需要をまかない、外国品を駆逐することは、当社創業の精神であり、使命である。前途まことに困難で、かつ、不安もあるが、どうか、創業時代に傾けたあの情熱と努力を、再びこの事業に注いでいただきたい。」

事業再開に当たっては、会社全般の業務組織を簡素化し、足柄工場の乾板部門および小田原工場の光学硝子部門は、規模を縮小した。東洋乾板の創業以来の歴史をもつ雑司ヶ谷工場は、戦災による損傷がはなはだしかったため閉鎖することとした。また、営業所は、東京と大阪の両出張所のみとした。翌1946年(昭和21年)7月には、映画用フィルム包装用の缶やロールフィルム用スプール(巻軸)を製作していた足柄工場の板金部門を分離して、株式会社富士板金工房(現富士機器工業株式会社)として発足させた。

生産の再開と設備の復旧整備

[写真]民需生産再開仮許可書

民需生産再開仮許可書

[写真]民需生産再開許可書

民需生産再開許可書

敗戦直後の苦難の生活の中で、人びとは、わずかに映画とラジオに娯楽を求めていた。

戦時中の映画の統制は撤廃され、占領開始直後の9月、GHQは、戦後の映画製作方針を指示し、占領目的達成のための有力な手段として映画を活用しようとした。

10月早々、占領軍当局者は、戦後の民心安定のため、映画の振興を奨励する方針を伝え、当社に対し、映画用フィルムの生産再開を指示し、仮許可書を下付した。いまだ正式許可ではなかったが、操業の再開が認められたのであり、これによって当社を覆っていた前途に対する不安は一掃されたのであった。

1945年(昭和20年)末から翌年の初めにかけて、足柄・小田原・川上の各工場に対して民需生産再開が許可された。また、戦時中、軍需工場の指定を受けていなかった今泉工場の生産は、1945年(昭和20年)10月の事業再開後、最も早くスタートした。

足柄工場の生産は、まず、映画用フィルムの製造でスタートし、次いで、X-レイフィルムの製造を再開した。しかし、作業を開始したものの、燃料・原材料・電力いずれも不足しており、しばしば作業の中断を余儀なくされた。

この事情は、他の工場でもほぼ同様であった。

そのうえ、各工場の生産設備は、戦時下整備不十分のまま間断のない酷使を続けたことによって損傷個所も多く、荒廃しきっていた。このため、生産再開に当たっては、設備の補修・整備が焦びの問題であった。資材も乏しく、資金も限られていたが、重点的に補修整備を進めることとした。

勤務制度の改正と労働組合の結成

再建を図るうえで大きな問題となったのは、食糧不足と、とめどもなく高進するインフレの中で、いかにして従業員の生活を守り、勤労意欲を高めるかということだった。

1946年(昭和21年)4月、従来の職員と工員との区分を廃止し、従業員の区分を職能別区分に改め、実働時間を8時間とし、さらに給与形態も一本化し、大幅な昇給を実施した。これは、従業員の士気を高め、生産意欲を高揚させるのに、力を発揮したが、インフレはそれにも増して燃えさかり、従業員の生活の不安は続いた。

戦後、産業報国会は解散された。1946年(昭和21年)3月、労働組合法が施行され、当社でも、各事業場ごとに従業員組合が結成された。同年5月には、富士フイルム従業員組合協議会が発足、同年10月、連合会に発展した。さらに、翌1947年(昭和22年)10月には単一組織に改組、富士フイルム労働組合が生まれた。

[写真]最初の労働協約書

最初の労働協約書

この間、1946年(昭和21年)12月28日、当社は、労働組合連合会との間に労働協約を締結した。同協約は、前文に「道義的認識ト相互的理解ニ基ク協力ニヨリ企業ノ発展ト従業員ノ福祉ヲ増進シ相共ニ産業平和ノ確立促進ニ寄与スル目的ヲ以テ本協約ヲ締結ス。」と明記した。

同協約に基づいて、全社的な労使の協議機関として経営協議会が、事業場と労働組合支部との協議機関として運営協議会が、それぞれ設けられ、具体的な問題の協議に当たることになった。

激しいインフレのもとで、労働組合は、生活防衛のための給与の引き上げを要求した。当社も、従業員の福祉の増進を図るため、受け入れ可能なものは積極的に受け入れ、数次にわたって、給与の改訂や一時金の支給を行ない、従業員の生活の安定化に努めた。

同時に、勤務時間の短縮など、労働条件の改善も進めた。実働時間は、1947年(昭和22年)1月からは7時間15分に、1948年(昭和23年)12月には7時間10分に短縮した。また、連続作業場における勤務は、創立以来2交代12時間勤務制であったが、1947年(昭和22年)11月から、3交代勤務制へと改めた。

なお、相互扶助によって従業員の福利増進を図ることを目的として、1945年(昭和20年)12月には、共済会制度が発足した。

特別経理会社、過度経済力集中会社の指定

戦後いち早く生産を再開するという幸運に恵まれたとはいえ、当社の前途には越えねばならない山がいくつかあった。

対日占領政策の遂行に当たったGHQは、日本を非軍事化し、民主化するという方針のもとに、次々と指令を発し、企業の活動に大きな影響を与えた。

1945年(昭和20年)11月に発せられた財閥解体の指令に関連して、当社の生みの親である大日本セルロイドは、1946年(昭和21年)4月、企業活動を制限される制限会社に指定された。制限会社の役員は他の会社の役員を兼任することが禁止されたので、同年12月には、創立以来当社役員の任にあった西宗茂二(大日本セルロイド取締役社長)は当社取締役を、伊藤吉次郎(大日本セルロイド取締役副社長)は当社監査役を、それぞれ退任し、また、当社創立以来相談役として当社の成長・発展に尽くしてきた森田茂吉(大日本セルロイド相談役)も、当社相談役を退いた。また、同社が所有していた当社株式も手放すことになった。

また、戦時補償(戦時中に生じた政府の民間に対する債務の補償)の打ち切りが実施されることになり、1946年(昭和21年)8月、会社経理応急措置法が公布された。これは、戦時補償打ち切りによって著しい影響を受けることが予想される会社を特別経理会社に指定し、今後の事業活動に必要な資産のみを新勘定に移し、その他の資産を旧勘定として分離することとしたものである。これら特別経理会社は、同年10月に公布された企業再建整備法に基づいて、再建整備計画を立案し、大蔵大臣の認可を受けることになった。

当社もこの適用を受けて、特別経理会社に指定され、1946年(昭和21年)8月11日午前零時をもって新旧勘定を分離し、戦時補償打ち切りで弱体化した企業経理の再建整備を図ることとした。戦時補償の打ち切りによって当社が受けた損失は約3,000万円にのぼったが、これは、当時の資本金(2,500万円)を上回る額であった。

[写真]過度経済力集中排除法による指定令書

過度経済力集中排除法
による指定令書

次いで、1947年(昭和22年)12月、過度経済力集中排除法が公布され、翌1948年(昭和23年)2月8日、当社は、同法による過度経済力集中会社として再編改組の指定を受けた。同法は、1947年(昭和22年)4月に公布された独占禁止法を補完する目的で制定されたもので、戦時中、企業合同などによって巨大化した企業を該当会社に指定し、その分割を図ろうとしたのである。

確かに、写真感光材料メーカーの数は限られ、フィルム・乾板・印画紙などの生産に占める当社のシェアも高かった。しかし、原料から最終製品まで多面にわたり、それぞれが高度の技術を必要とする写真工業にあっては、主要原料は自ら製造し、各種製品を並行的に生産するのが当然で、それを行なわないかぎり、品質の安定もコストダウンもありえなかった。したがって、当社は、このような事情から、ある種の製品が国内需要の過半をまかなっていることをもって直ちに過度経済力集中というのは不当であると主張して、早期の指定解除を関係各当局に要請した。しかも、当社は、特定の財閥との連携はなかったし、また、他社を合併したり買収したりして膨張してきた会社でもなかった。これらの点について、詳細にわたって説明を繰り返し、集中排除法による指定の解除を申し入れた。その結果、1949年(昭和24年)1月21日、指定は解除された。

再建整備計画の認可

この間、当社は、企業再建整備計画の立案を進めた。再建整備に当たっては、増資を行ない、この払込金によって旧勘定の債務を弁済し、資本構成の是正を図る計画を立てた。この計画に基づいて、1948年(昭和23年)10月1日付で、資本金を3,000万円増額して、新資本金を5,500万円とした。

企業再建整備計画の認可は、集中排除法の指定との関連で遅れていたが、1949年(昭和24年)1月に集中排除法の指定が解除されたのに伴い、同年3月1日、再建整備計画も正式に認可され、特別経理会社の指定も解除された。これにより、当社は、特別損失皆無・株主債権者損失無負担で、新旧勘定の合併を行なった。

再建整備計画の認可によって、当社は、戦後の混乱を乗り切り、その後の発展・飛躍の道を歩み出したのである。

なお、戦後のインフレで不健全になった財務体質の是正策の一つとして、1950年(昭和25年)に資産再評価法が制定され、同法に基づいて、同年1月1日付で固定資産の再評価を実施した。その後、数次にわたる再評価を実施し、適正な減価償却を行なって、企業経理の健全化を図った。

 
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