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印刷製版材料の伸長とPS版への進出

 

1960年代に入って、印刷製版業界では、オフセット印刷が普及していく。そうした動きに対応して、当社は、各種製版用フィルムの整備を進める。1971年(昭和46年)、“フジリスオルソフィルム タイプV”と、同“タイプF”を発売し、製版用フィルム市場に確固たる地盤を築く。また、フィルムの現像処理の安定化や省力化のために、自動現像機や処理システムの開発を進める。一方、刷版材料として新たに登場したPS版の研究に取り組み、米国ポリクローム社との技術提携によって、1965年(昭和40年)、PS版事業に参入する。その後、品質の改良と品種の整備を進め、軽印刷市場から一般印刷市場にまで進出し、カラー印刷の校正刷り用から本機刷り用にと、需要は急増する。

オフセット印刷の普及

[写真]印刷工場における製版作業 1962年(昭和37年)

印刷工場における製版作業
1962年(昭和37年)

1960年代に入って,わが国経済の高度成長や産業界の発展によって,印刷物の利用度も高まり,印刷需要が拡大した。その中で,オフセット印刷は刷り上がりがきれいなこと,カラー印刷に適していることなどのために普及しはじめた。

オフセット印刷機の多色化・高速化が進み,オフセット輪転機もゆきわたり,オフセット印刷の作業効率と品質は飛躍的に向上した。また,写植機の普及や電算写植機の登場,あるいはエレクトロニクス技術を応用したカラースキャナー(電子色分解機)の出現もオフセット印刷の普及に拍車をかけていった。折しも,1963年(昭和38年)4月に「中小企業近代化促進法」が施行され,1964年(昭和39年)4月印刷業が,翌1965年(昭和40年)4月写真製版業が,それぞれ同法の指定業種とされた。これによって,中小企業近代化計画が立てられ,業界では新規設備の導入や経営近代化への優遇措置が講ぜられることとなった。ちょうどこのころから,人手不足が深刻化したことと,活版印刷や鉛版に使用されていた鉛が有害物質としてその取り扱いに厳しい規制が加えられ,また,これらの要因による作業環境の見直しの動きもあって,凸版印刷からオフセット印刷への転換が促進されていった。

当社は,すでに1950年代に“フジリスオルソフィルム タイプN”を発売するとともに,カラー分解用フィルムを発売し,印刷製版用感光材料の分野で一定の基礎を築いていたが,1960年代に入ってからは,オフセット印刷の普及に伴ってリスフィルムの改良と品種の整備を進めるとともに,PS版および機器の開発に積極的に取り組んでいった。

フジリスフィルム“タイプV”,“タイプF”の商品化

1960年代に入って,写真製版方式は急速に湿板法からフィルム法に移行していった。当社は,各地の印刷製版会社を訪ね,あるいは講習会を開催するなどして,湿板法に対するフィルム法の長所と当社製品の品質上の特長を説明し,フジリスフィルムの普及を図ってきた。折から,日本経済の成長に伴って印刷物の需要も年々増大し,また,カラー印刷の増加などによってフィルム需要は増加の一途をたどり,要求される品質もますますシビアになってきた。

製版用フィルムの輸入も,1962年(昭和37年)10月にロール状のものが,次いで,1964年(昭和39年)10月にはシート状のものがそれぞれ自由化され,市場の競争もますます激しくなってきた。

写真製版の際には,写真原稿の画像を非常に細かい網状の点(網点)の集合に置き換えて,この点の大小によって画像の濃淡の調子を再現する,いわゆる網撮影を行なう。この網点の品質が印刷の仕上がり品質に大きく影響する。

[写真]フジリスオルソフィルム タイプV

フジリスオルソフィルム タイプV

[写真]フジリスオルソフィルム タイプV

フジリスオルソフィルム タイプF

当社は,フジリスフィルム発売以来,品質性能の改善に努め,1968年(昭和43年)10月には,網点品質を格段に良化するとともに自動現像機適性をもたせた“フジリスオルソフィルム タイプA”を発売し,1971年(昭和46年)7月に,待望の“フジリスオルソフィルム タイプV”を商品化した。

この“タイプV”は,従来品より網点品質を格段にレベルアップするとともに,網階調(網点の大小に表現された画像の調子)をはじめ,各種の性能の向上を達成した。また,PETベースを使用して寸度安定性にも優れ,自動現像機による現像処理適性もあり,カラー印刷に求められる厳しい品質要求に応えた製品であった。

リス型フィルムは,網撮影用のほかにも,網撮影によって得られた網版の返し(例えば,網ネガ版から網ポジ版への密着プリント)や,文字・線画撮影など,製版工程の多様な用途にも使用されるが,当社は,それぞれの使用目的に対応して各種のフィルムを整備してきた。すなわち,1961年(昭和36年)1月に,網ネガ版から網ポジ版を作成する返し作業の密着用として“フジリスコンタクトフィルム”を,1963年(昭和38年)3月に,文字・図柄の貼り込み用として“フジリスオルソストリッピングフィルム”をそれぞれ発売した。また,翌1964年(昭和39年)4月には文字・線画撮影用の“フジリスラインフィルム”を,さらに,1967年(昭和42年)9月には,画像を左右反転するためにフィルムの裏側からの撮影用として“フジリスオルソフィルムタイプO クリアバック”を発売した。

そして,1971年(昭和46年)7月,“タイプV”の商品化と同時に,“フジリスオルソフィルム タイプF”を商品化した。“タイプF”は,網版の返しや黒白原版からの網撮影,あるいは線画撮影用に開発したもので,販売価格も“タイプV”より割安の製品であった。

“タイプV”,“タイプF”の商品化によって,当社は,製版用フィルム市場に確固たる位置を占めるに至った。

スキャナーフィルムの開発

カラー写真の製版作業は,まず,カラー原稿をパンクロマチック(全整色性)の写真感光材料を用いて,製版用カメラでシアン版用・マゼンタ版用・黄版用・墨版用の4版に色分解して撮り分ける。この分解撮影のために,当社は,1958年(昭和33年)2月“富士三色分解用乾板”を,同年10月“富士製版用パンクロフィルム”をそれぞれ発売し,需要に応えてきた。その後,1964年(昭和39年)7月には,改良品を“富士分解用フィルム”として発売した。

[写真]富士分解フィルム(レーベル)

富士分解フィルム(レーベル)

[写真]富士スキャナーフィルム SC-11(レーベル)

富士スキャナーフィルム
SC-11(レーベル)

しかし,新しいカラー分解システムとしてカラースキャナーが開発され,1961年(昭和36年)に日本にも導入された。カラースキャナーは,カラー原稿の色分解と同時に色補正・階調修正などを電子的・機械的に行なう装置で,従来の色分解方式が熟練と経験を要するのに比べて,カラースキャナーは数値的に管理できるため,色分解作業が効率的に行なえるうえに仕上がりが均一で,高品質の色分解原板が得られるなど,画期的なシステムとして脚光を浴びた。

カラースキャナーは,高速回転するドラムに巻かれたフィルムにスポット光で走査・露光するので,スキャナー用の高照度短露光に適した特別のフィルムを必要とした。当社は,カラースキャナーが開発された当初から,このスキャナー用のフィルムの開発に取り組んだ。そして,1967年(昭和42年)10月,高感度パンクロマチックタイプ“富士スキャナーフィルムSC-11”を発売し,同年11月には,オルソクロマチックタイプの“富士スキャナーフィルムSC-21”も発売した。その後も引き続き,各種のスキャナー機の開発に対応して各タイプのスキャナーフィルムを開発していった。

自動現像機の開発

湿板法からフィルム法への転換,スキャナーの出現などで製版工程や分解工程の効率化は進んでいったが,大部分の印刷製版工場の現像工程は,依然として手現像で品質管理の面や作業効率化の面でネックとなっていた。

このネックの解消を目的として米国で自動現像機が開発され,1960年代に入って日本にも導入された。自動現像機は,処理工程を自動化することによって作業効率を大幅に向上させるだけでなく,数値的な管理によって現像のバラツキを少なくし,製版の品質を向上させるものであった。

[写真]富士製版フィルムプロセサー FG14-L

富士製版フィルムプロセサー
FG14-L

当社にとっても,製版用フィルムの普及を図るために,また,写真感光材料本来の性能を十分に発揮させるためにも自動現像機の商品化が必要となってきた。しかし,当面,自動現像機を開発するための時間を確保するために,米国のパコ社から大型の自動現像機“パコロールG”を輸入し,1967年(昭和42年)10月から発売した。それと並行して,製版用フィルム自動現像機の自社開発に取り組み,1970年(昭和45年)3月,コンパクト型の“富士製版フィルムプロセサーFG14-L”を発売,その後,各種の自動現像機を製造販売していった。

この間,自動現像機に適した各種の現像処理薬品を整備してきたが,1972年(昭和47年)12月には,従来のリス型フィルム用現像液の不安定要素を改良した現像液“SS-1”を発売し,前年に商品化した“フジリスフィルム タイプV”あるいは“タイプF”および機器との組み合わせで,現像処理を安定化する“富士SSシステム”(Fuji Super Stabilization System)を完成した。1974年(昭和49年)3月には,迅速処理剤“SS-2”を発売し,このシステムの品質向上と省力化を進めていった。

PS版の開発

[写真]プラノマスター(レーベル)

プラノマスター(レーベル)

[写真]プラノデュプリケーター

プラノデュプリケーター

フジリスフィルムで製版分野に進出した当社は,オフセット印刷のもうひとつの材料である刷版の分野に着目していた。当時,オフセット印刷会社では,刷版は自社で金属板(亜鉛版やアルミ版)に感光液を塗布して用いていた。このようにして作られる版は経時保存性が悪いので,使用直前に感光液を塗布しなければならない不便さがあり,性能も不安定で良い印刷物を作ることは難しかった。ちょうどそのころ,あらかじめ感光剤が塗布されているプレート,すなわちPS版(Presensitized Plate)が登場し,わが国にも輸入されてきた。

当社がPS版に進出するに当たって手助けとなったのは,オフセット印刷用のぺーパーマスターの研究であった。従来の孔版印刷,いわゆるガリ版に代わる簡易印刷方式として,そのころ,ぺーパーマスターによる簡易オフセット印刷方式が登場してきた。当社は,オフセット印刷用ぺーパーマスターの研究に着手し,その開発に成功。今泉工場で生産を開始し,1959年(昭和34年)2月,“プラノマスター”の商品名で発売した。これは,主として官公庁・銀行・会社などの社内印刷用に使用された。その後,1963年(昭和38年)には,卓上型の小形オフセット印刷機“プラノデュプリケーター”を商品化して,その普及を図っていった。

一方,その当時,軽印刷業界でもオフセット印刷が導入され始め,ゼロックス製版機からのオフセット印刷や,タイプ清打ち原稿を製版カメラでリスフィルムに撮影し,ジンク版に焼き付けて刷版とするPTO印刷(Photo Type Offset印刷)が採用されはじめていた。

プラノマスターの市場開拓を進めていた当社は,PS版という優れた刷版材料が存在すること,しかも,輸入品は高価であり国産化の要望が強いことを知り,その将来の市場性についての調査を行なった。その結果,PS版は,単に軽印刷の分野にとどまらず,将来,一般印刷の分野でも有望な市場が見込める商品であることが判明した。そこで,PS版の商品化のための研究に取り組み,試作を繰り返した。

[写真]米国ポリクローム社との技術提携契約の調印

米国ポリクローム社との
技術提携契約の調印

その結果,PS版の商品化について,ほぼ見通しを得るに至ったが,早期発売のためには海外のPS版メーカーと提携するのが得策であると考え,世界の有力メーカーを調査・検討し,技術提携先として米国のポリクローム社を選定し技術提携の可能性について打診した。ポリクローム社は,当社の技術力や販売力を高く評価し,1963年(昭和38年)8月,技術提携契約を締結した。これに基づいて,翌1964年(昭和39年)2月,当社は技術スタッフをポリクローム社に派遣し製造技術の習得に当たった。

PS版の事業化について,当初は,社内印刷用や軽印刷用のものから商品化することとし,小田原工場内にPS版工場の建設に着手するとともに,1964年(昭和39年)2月,オフセット機材部を設けて,平滑両面コートのスピードコート(SK)・砂目片面コートのグレンコート(GK)をポリクローム社から輸入し,国内販売を開始した。

その後,PS版工場の建設の進ちょくに伴い,1964年(昭和39年)10月,小田原工場にオフセット材料部を設置した。翌1965年(昭和40年)4月には,新工場が完成し,試運転を経て本稼動を開始した。そして,同年8月,社内印刷用の紙ベース品“プラノマスターOM”・“プラノアイボリー”(ID)・“プラノラピッドコート”(RK)と,アルミ板をべースとする“プラノスピードコート”(SK)・“プラノネガティブグレンコート”(GKN)を,一斉に発売した。

PS版の整備

PS版は,アルミ板や紙の支持体の上に,ジアゾなどの感光性化合物と樹脂(バインダー)を主とする感光剤を塗布したものである。当初発売したものは,すべてネガタイプで,ネガ原板から露光し光が当たった感光層部分が光硬化して不溶化され画像部となり,光の当たらなかった部分は現像液で溶解除去され非画像部分を形成する方式のものであった。

PS版は,オフセット刷版材料としては画期的なものであったが,発売当初は,あまりにも画期的すぎたこと,それに,従来の版材(亜鉛版・アルミ版)が表面の研磨を行なうことによって反復使用できるのに比べ1回しか使用できず,価格面でも割高であったことなどのためその普及は遅々として進まなかった。このため当社は,デモ用の大きなカバンをつくり,それにPS版と各種処理薬品を詰め,営業部員がそのカバンを持って需要見込み先の印刷業界や軽印刷業界の各会社を一軒ずつ訪問し,実際にPS版を使用して版作成の実演を行ないPS版の採用をすすめた。その姿は,当社の創立当時,乾板をカバンにつめて営業写真館を一軒一軒訪問して,当社製品の採用を呼びかけた営業活動をそのまま再現したかの観さえあった。

[写真]カラー印刷工程図

[写真]PS版商品群

PS版商品群

[写真]PS版による印刷

PS版による印刷

PS版には,刷版作成工程の効率化と省力化を実現するという強力なセールスポイントがあった。当社は,従来の金属版の研磨や感光剤の塗布に要する費用とPS版の採用によって節約できる費用についての細かなデータを作成し,PS版の採用によって全体としての利益を向上させることができることを説明して,PS版の採用を強く働きかけた。

このような当社の強力な働きかけによって,PS版の採用に踏み切るところが次第に増加していった。PS版を採用したところでは,作業効率を大幅に向上させるとともに,印刷仕上がりが格段に良化したことなどが評判となり,PS版は,軽印刷分野に徐々に浸透していった。なお,需要先が軽印刷分野に移行したことに伴い,社内印刷用の紙支持体の製品(“プラノマスターOM”など)は,1971年(昭和46年)をもって製造を中止した。

しかし,軽印刷分野だけでは大きな伸長は望めなかったので,当社はさらに一般印刷市場への進出を計画した。

一般印刷業界では,カラー印刷のオフセット化が進んでいた。それに伴って,ポジ原板から直接焼き付けるポジタイプのPS版が強く求められていた。ポジタイプのPS版は,光が当たった部分が光分解して現像液で溶解して非画像部分となり,光の当たらなかった部分が画像部となるものである。当社は,ポジタイプの開発を進め,1966年(昭和41年)2月,“プラノポジティブグレンコート”(GKP)を発売した。次いで,1968年(昭和43年)4月には“プラノスーパーポジティブグレンコート”(SGP)を発売した。“SGP”は,あらかじめ感光層に樹脂を内蔵させてラッカー盛り工程を不要にし,PS版処理工程を短縮したもので,カラー印刷の校正刷り用として広く採用された。

引き続き,当社は,PS版の耐刷力の向上について研究を進め,新たに,陽極酸化法(表面摩耗を防ぐために,電気的に表面を酸化処理する方法)の技術を開発し,1969年(昭和44年)6月,“プラノネガティブアノダイズドグレンコート”(GAN)を,また,1971年(昭和46年)9月にはポジタイプの“プラノスーパーポジティブアノダイズドグレンコート タイプ392”(GAP392)を,それぞれ発売した。“GAN”と“GAP”は,陽極酸化法による表面処理で耐刷力を大幅に向上させるとともに,プレート表面に無数の小孔を形成することにより,保水性を高め,インキと水とのバランスを安定化させ,印刷仕上がりを改善するとともに刷りやすくした画期的な製品であった。

“GAN”と“GAP”の商品化によって,PS版は,カラー印刷の本機用(本刷り印刷用)に用いられるようになり,その需要は急激に増大していった。

一方,生産設備については,1970年(昭和45年)7月には,小田原工場内に2号機を設置して増産に対処したが,それでもなお需要の急激な増大が見込まれたので,新たにPS版専用工場を建設すべく検討を開始した。

銘板用プレート“アルフォト”の開発

[写真]アルフォトの使用例

アルフォトの使用例

PS版の製造で培われたアルミニウム加工技術は,写真乳剤技術と結びつくことによって,全く新しい商品を生み出した。1969年(昭和44年)6月に発売した銘板用プレート“アルフォト”がそれである。

“アルフォト”は,陽極酸化したアルミ板のアルマイト表面の無数の小さな孔に銀塩感光剤を封入したものであり,細かい文字も完全に再現できる高い解像力をもつうえ,温・湿度や光に対して退色や変色することがなく,表面が硬いので傷もつかず,ほぼ半永久的に使用することができる。

この“アルフォト”の処理は,ネガ原板から文字や図形を密着焼き付けし,現像・定着した後,黒化度と耐久性を増す調色を行ない封孔処理する。ツヤを出したい場合にはさらに研磨し,着色したい場合には着色液で着色することもできる。

“アルフォト”の用途は,各種銘板をはじめ表札や機械の説明板,屋外の表示案内板など多岐にわたっており,また,画像は冷黒調で,アルミ特有のシャープな質感と格調高い仕上がりができるため,インテリアとして室内装飾にも広く用いられている。

 
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