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活力ある企業集団づくりと労働条件の向上、労使関係の安定化

 

1970年代に入り、外部環境の激しい変化により、極めて不安定な経営を強いられる。その中にあって、より活力ある企業集団づくりを目指し、人事諸制度およびその管理システムの充実を図る。一方、労使関係面では、その安定化が促進され、労働条件面では、実働時間短縮と完全週休2日制の実施、定年の再延長、年金制度の改定など、進んだ制度を実現する。また、従業員の日ごろの健康管理体制の充実に努めるとともに、健康保険組合の健全な運営とその発展を図る。明るく健康な職場づくりの一助としてのスポーツ活動の中で、バレーボールでは、その頂点に立つ選手達が日本リーグで優勝するなど、幅広く活躍している。

活力ある企業集団づくりを目指した人事諸制度の充実

1970年代に入ると,激動する外部環境の影響を強く受け,変化に対応できる強じんな企業体質へと脱皮することが緊急課題となってきた。

この課題解決のため,従業員一人一人の能力と意欲が最大限に発揮され,かつ,その力が結集され,チャレンジングな目標に向かって果敢に挑戦する体質をつくりあげていくことが命題となり,このための諸施策を展開していった。

まず,人材育成の面では,階層別研修システムの充実を図った。新任課長・課長層全員・部長層に対する研修とそれぞれの研修システムの充実を図り,組織運営や事業活動の中核的存在としての部課長層の一層のレベルアップを図るとともに,若手層を対象とした研修,語学を中心とした国際人養成を目指した研修も逐次強化してきている。

人事・処遇制度面では,1970年代に入り,従業員の意識変革・行動変革を促すべく,従来制度の抜本的見直し・改善が行なわれた。その基本的な考え方は,年功序列的・一律的なものを是正して,従来以上に,より高い業績をあげる者により厚く報いるという実力主義を重視する方向を実現していくことであった。

部課長層については,実力主義の昇進管理を進めていく中で,そのマネジメント力の強化を図った。また,1977年(昭和52年)7月に理事制度を,次いで1980年(昭和55年)1月に研究部門に主席研究員制度を,それぞれ発足。高度な専門的技術力を有する者に対して一段と高い登用への道を開いた。

[写真]新社員制度,年金の給付改善のパンフレット

新社員制度,年金の給付改善のパンフレット

[写真]総合人事情報システムコードブック

総合人事情報システムコードブック

1979年(昭和54年)から1980年(昭和55年)にかけて,部課長処遇の基本となる考課制度を改善し,賃金制度の見直しを進めていった。賞与の支給基準を改訂し,従来よりも,さらに,職務(役職)と実績(業績考課)に見合った賞与の実現を図るとともに,1983年(昭和58年)6月には,賃金体系の一部を改訂して部課長の役職手当を新設した。これによって,部課長の昇進・賃金処遇については,従来のやや年功的な処遇から実力主義処遇を重視する方向が実現してきている。

一方,一般従業員層については,1980年(昭和55年)1月,これまでの社員制度を改訂し,従業員一人一人が一層意欲をもってその力を伸ばしていける「新社員制度」を発足させた。新制度では,従来の従業員の職種区分を廃止し,新たに各人をその職務遂行能力に応じた社員等級に格付けし,その持てる力を生かした役割を分担し合う職場づくりを進めている。

また,人事管理のツールとして,必ずしも十分なものではなかったこれまでの人事情報検索システムに代えて,新たに「総合人事情報システム」(SPIS=Synthetic Personnel Information System)を開発し,順次情報のインプットを進め,1982年(昭和57年)1月からこのシステムの稼動を開始した。この新しいシステムは,各人の過去のキャリアと実績,現在の専門性と保有能力,将来の育成方向,私的身上情報など個人にまつわる情報を把握し,これをコンピューターに入力・ストックし,更新・検索・作表を極めて効率よく行なうものであり,従業員一人一人がより力を発揮し成長し得る,適材適所を実現していくための資料として役立てている。

労働条件の向上と労使関係の安定化

一方,労使関係については,わが国社会経済情勢の先行き見通しが極めて難しい状況下ではあったが,当社は引き続いて,従業員の生活安定と労働条件の向上に努力していった。

まず,賃金の面では,第1次オイルショックとそれに伴う狂乱物価を反映して,1974年(昭和49年)には世間の賃上げ率も30%を超えるなど,物価の急激な上昇と大幅賃上げが労使をめぐる大きな問題となった。当社の賃金交渉もその影響を受けて交渉が難航し,10年ぶりのストライキが行なわれ,続く1975年(昭和50年)にもストライキを繰り返す事態となった。しかし,労使が協力して異常な物価上昇など揺れ動く時代を乗り切っていこうという大きな流れの中で,ストライキの後も,かつてのように労使の決定的対立を招くには至らず,労働協約の前文の精神を労使関係の基本として,労使相互の努力と協力により新しい時代にふさわしい労使関係を着実に築いていった。そして,この状況下においてトップクラスの賃金水準の維持を図ってきた。

[写真]財形年金制度の案内パンフレット

財形年金制度の案内パンフレット

[写真]従業員持株制度のパンフレット

従業員持株制度のパンフレット

また,賃金以外の福利厚生,あるいは労働条件の面でも,その改善に努力していった。

福利厚生面では,早くから持家制度の充実に力を入れてきたが,1970年代に入ってからも,1971年(昭和46年)3月住宅融資制度改訂,1973年(昭和48年)6月住宅資金貸付規程改訂,1974年(昭和49年)11月厚生年金住宅資金貸付制度発足と従業員の住宅対策を進め,引き続き,1981年(昭和56年)3月には,財形制度を採り入れてきた。その結果,現在では35歳以上の男子従業員の大半が,すでに持家するまでになっている。

このほか,共済会の給付の改善を図り,1975年(昭和50年)5月には,従業員持株制度を発足させるなど,従業員の生活安定の一助とした。

労働条件向上の問題では,時間短縮が労使の大きな課題となり,労使の専門委員会で検討を重ねた。そして,工場日勤部門の実働時間については,1970年(昭和45年)に,これまでの1週42時間制から1時間短縮して41時間へ,1975年(昭和50年)には,さらに1週40時間へと,2回にわたって時間短縮を実施した。工場3交代部門については運用の関係から困難を伴ったが,1975年(昭和50年)に,一挙に,週41時間から38時間に大幅に短縮すると同時に,3組3交代勤務制から4組3交代勤務制へと勤務制度の変更を実施した。この間,本社営業部門でも,1974年(昭和49年)に完全週休2日制を実施した。

また,定年制については,1973年(昭和48年),従来の定年57歳の再延長を取り決め,翌1974年(昭和49年)から段階的に実施して,1979年(昭和54年)1月から,原則として60歳定年とした。

このように,1970年代の厳しい社会経済情勢の中にあって,労働時間の短縮や定年延長など,世の中の動きを先取りして優れた労働条件の実現に努力していった。なお,1979年(昭和54年)6月には,賞与の額の決定方式についても,従来は夏冬の支給期にそのつど支給額を団体交渉で決定してきたものを夏冬の年間賞与額を一度に決定する年間賞与方式に移行,労使関係の一層の安定化に役立てている。

その後,1981年(昭和56年)10月には,工場日勤部門でも週休2日制を実施。ここに全社的に完全週休2日制を実現した。また,1982年(昭和57年)10月には年金制度を改訂して,退職金の一部を年金化して適格年金制度を導入した。この年金制度改訂の主な内容は,(1)希望者には本人の退職金の一部を年金で受給できる適格年金制度を新設したこと(2)現行の厚生年金基金の加算年金の給付を2倍に増額したことで,例えば,退職金の2分の1を年金とすることを選択する人は,今回の改善の目標であった「定年時の年収の60%」を年金として終身受給できることになる。

このように,当社は,労働条件や福利厚生面の充実を図り,従業員の生活の向上に努めるとともに,労使関係の安定化に一層の努力を重ねてきた。

今後,わが国における労使関係は,単に日本の社会情勢だけでなく,国際的視野に立った相互関係がこれまで以上に要求されてくることは明らかである。企業規模の拡大を図り,より一層の多角化と海外進出を目指す当社にとっても,労使双方がさらに一段と大きな観点から,企業の永続と労働条件の向上を目指して新しい時代にふさわしい関係を確立していかなければならないと思われる。

健康管理センター

[写真]健康管理センター

健康管理センター

1942年(昭和17年)2月,足柄工場の隣接地に富士フイルム付属診療所を創設し,従業員ならびにその家族などを対象として診療を開始して以来,1947年(昭和22年)8月には,内科・外科・産婦人科・歯科を加え,ベッド保有数20床をもって「富士フイルム付属病院」に改組,次いで1949年(昭和24年)放射線科を,翌年小児科を,それぞれ増設,1954年(昭和29年)には外来棟も新設,翌1955年(昭和30年)にはベッド数を48床として面目を一新した病院となった。また,各事業所場所地にも診療室を開設し,診療活動の場を広げ,従業員の要望に応えていった。

「富士フイルム付属病院」は,その後,地域社会に重きをなし,しっかりと根をおろして活躍すること26年に及んだが,やがて近隣の医療機関も充実・強化されてきたことなどを勘案し,臨床医療よりも疾病の予防と健康づくりに重点を置くことに方針を転換した。そして,1973年(昭和48年)2月,病院を廃止し,「富士フイルム健康管理センター」として新発足した。その後,健康管理センターは,検査能力・分析能力をアップさせるなど,予防管理体制の強化に努めている。

健康保険組合

[写真]「健保だより」(健康保険組合発行)

「健保だより」(健康保険組合発行)

[写真]保養所 菅平高原荘

保養所 菅平高原荘

富士写真フイルム健康保険組合は,1940年(昭和15年)2月設立以後,当社の伸長とともにほぼ順調に拡大し,1984年(昭和59年)3月現在では,

○ 被保険者数 3万2,846名

男子 2万4,900名

女子 7,946名

○ 被扶養者数 4万8,901名

○ 事業主数 64

○ 事業所数 85

○ 保険料率 65/1000

○ 収入 75億円

という健保組合としてはわが国でも比較的大きな規模に達した。しかも保険料率65/1000という低率を維持しつつ,この10年間の健保給付率平均は約85%と,健全かつ安定的に運営されている。

健康保険組合では,今後も加入者の日ごろの健康管理の充実に一層力を入れ,低保険料率の維持を図りつつ,健保事業の一層の充実・強化を目指している。

バレーボール日本リーグを制覇

[写真]足柄工場第1体育館

足柄工場第1体育館

[写真]男子バレーボール,日本リーグ初優勝 1982年(昭和57年)

男子バレーボール,日本リーグ初優勝
1982年(昭和57年)

[写真]女子バレーボールの活躍

女子バレーボールの活躍

[写真]男子バレーボール,日本リーグ第2回優勝 1984年(昭和59年)

男子バレーボール,日本リーグ第2回優勝
1984年(昭和59年)

福利厚生面の充実を図る一方,明るく健康的な職場をつくるため,当社は,従業員のスポーツ活動やクラブ活動を積極的に応援してきた。なかでも,バレーボールは,狭い場所でもネットとボールがあれば大勢の人が一度に楽しめるので,暗室作業やち密な業務の多い従業員にとっては,格好のレクリエーションであり,工場では,昼休みなど毎日コートを奪い合うようにして盛んに行なわれてきた。

こうした活動の盛りあがりとして,当社を代表するチームをもち,かつ,それを強くしようとする動きが高まってきた。このことは,従業員の志気が高揚し,地域社会との関係にも好影響を与えることになるため,1950年代後半からバレーボールチームの強化に本格的に取り組み,1960年代に入ると,早くも男女チームともわが国でトップクラスの仲間入りをするようになった。

その後,男女選手の中からは,世界選手権やオリンピック大会などにわが国を代表して参加活躍する者も輩出し,また,チームとして男女ともたびたび海外遠征を行ない,それぞれ実力のほどを示した。

一方,国内大会でも,国民体育大会・都市対抗あるいは日本リーグ(現Vリーグ)で好成績を収めるなど縦横に活躍し,バレーボール熱は,社内はもちろん工場周辺の地域社会で一挙に高まっていった。

こんにち,当社バレーボールチームの活動は,単にチームだけのそれにとどまらず,広く,従業員,富士フイルムグループ,地域社会一体の活動となっている。たとえば,当社が後援して,1961年(昭和36年)から西湘地区中学校バレーボール大会を,1962年(昭和37年)から同高等学校バレーボール大会を,それぞれ開催,その後,南足柄市ママさんバレーボール大会を後援するなど,幅広い活動を行なっている。そして,1973年(昭和48年)には,地元南足柄市に市長を会長として「富士フイルムバレーボール部応援友の会」が発足するなど,応援活動でも,地元および富士フイルムグループをあげての全国応援体制が整えられ,共に戦い共に喜び合う熱のこもった盛りあがりをみせている。

こうした盛りあがりの中で,1982年(昭和57年)には,男子チームが日本リーグ制覇の悲願を達成,引き続き,1984年(昭和59年)3月にも,男子チームは,選手6人がロサンゼルスオリンピックの全日本代表メンバーに選ばれるという強力チームの実力を発揮,日本リーグで2度目の優勝を果たして,当社創立50周年に花を添えた。

 
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