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写真フィルム国産化へのチャレンジ

 

第1次世界大戦後、1919年(大正8年)誕生した大日本セルロイド株式会社の森田社長は,セルロイドの新しい需要先として、写真フィルム、映画用フィルムの将来性に着目するとともに、その国産化を社会的責務であると考える。大日本セルロイドは、まず、フィルムベースの研究から着手するが、写真フィルムは、わが国においては全く未開発の分野であり、一時は米国コダック社との提携も考慮する。しかし、コダック社の拒否回答で、自力による開発を決意、1926年(大正15年)「フィルム事業自立計画」を決定する。また、写真乳剤の研究を進めるため、これまで写真用乾板の工業化を進めていた東洋乾板株式会社と提携する。

はじめに

[写真]大日本セルロイド株式会社堺工場

大日本セルロイド株式会社堺工場

富士写真フイルム株式会社は、1934年(昭和9年)1月20日創立したが、当社創立に至るまでの歴史、すなわちその前史を概観し、源流をたどっていくと、さらに15年をさかのぼることになる。

1919年(大正8年)2月、わが国における写真用乾板の工業化に先べんをつけた東洋乾板株式会社が創立され、さらに、同年9月には、大日本セルロイド株式会社(現ダイセル化学工業株式会社)が創立された。大日本セルロイドは、当時わが国において全くの未開発分野であった、写真フィルムのフィルムベースからの一貫生産を企図し、困難な研究にチャレンジした。そして、長期間にわたって苦しい研究を重ねた結果、その開発に成功し、当社設立の直接の母体となった。

当社の歴史は、事実上、この年、この両社から始まった。

なお、この年9月にはオリエンタル写真工業株式会社が創立されており、1919年(大正8年)という年は、日本写真史上忘れることのできない年であったといえよう。

大日本セルロイドの発足

わが国に初めてセルロイドがもたらされたのは、1870年代のこととされているが、1900年代になって、セルロイドの利用価値と将来性に着目し、その企業化を目指す動きが現われてきた。

1908年(明治41年)3月、兵庫県網干町(現姫路市)に日本セルロイド人造絹糸株式会社が、同年7月、大阪府堺市に堺セルロイド株式会社が、それぞれ設立され、セルロイドの製造を始めた。

その後、1910年代にかけて、セルロイド製造会社が相次いで誕生したが、その背景には、第1次世界大戦のぼっ発に伴うセルロイド需要の急増があった。しかし、1918年(大正7年)11月に、連合国とドイツとの休戦条約が締結され、第1次世界大戦が終結すると、大戦不況の影響もあって、セルロイドの需要は急激に低下し、業界は混乱に陥った。

この混乱による共倒れを防ぐため、前記2社をはじめとする業界8社の大同団結が実現し、1919年(大正8年)9月8日、資本金1,250万円をもって、当社の母体となった大日本セルロイド株式会社が設立されたのである。

発足時の役員には、

取締役社長 森田茂吉

専務取締役 嶋村足穂

常務取締役 西宗茂二

常務取締役 淺野修一

がそれぞれ就任し、本社を大阪府堺市に、工場を、堺、網干、兵庫県神崎、東京に置いて、セルロイド製品の製造および販売を始めた。

大日本セルロイドは、発足後まもなく、わが国最大、世界でも有数のセルロイドメーカーに成長し、その製品は国内需要の大半をまかなうほか、広く海外にも輸出された。

[写真]森田茂吉(大日本セルロイド取締役社長)

森田茂吉
(大日本セルロイド取締役社長)

[写真]嶋村足穂(大日本セルロイド専務取締役)

嶋村足穂
(大日本セルロイド専務取締役)

[写真]西宗茂二(大日本セルロイド常務取締役)

西宗茂二
(大日本セルロイド常務取締役)

[写真]淺野修一(大日本セルロイド常務取締役)

淺野修一
(大日本セルロイド常務取締役)

セルロイドを写真フィルムの支持体に

当時、セルロイドを使用した主要製品は、文房具、がん具、日用品などであったが、企業としてさらに発展していくためには、これら既存の分野以外の需要先の開拓が強く求められた。

そして、その最も有力かつ有望な需要先として考えられたのが、写真フィルム、映画用フィルムの事業化であった。

セルロイドの写真フィルムの支持体(ベース)としての適性に着目し、その開発を進めたのは、米国コダック社の創始者であるジョージ・イーストマン(G.Eastman)であった。彼は、1889年(明治22年)、セルロイドの支持体に写真乳剤を塗布した写真フィルムをつくることに成功した。これによって、写真の普及のための道が開け、乾板用のガラスに代わる、ロールフィルムのベースとして、セルロイドの新しい市場が開拓された。また、映画用フィルムにも応用範囲を広げ、映画の発展を促す要因ともなった。

さらに、当時X線による診断方法が確立され、X線用フィルムとしての用途も開かれるなど、写真フィルムが多くの分野に広く利用される兆しが生まれたのである。

写真と映画の歴史

写真の歴史は、1820年代にさかのぼる。当時、フランス人ニエプス(J.N.Niepce)によって写真術が発明され、次いで1830年代に、フランス人ダゲール(L.J.M.Daguerre)が、ダゲレオタイプという現在の銀塩写真方式に近い方式を発明したことによって、近代写真術の基礎が築かれた。ダゲレオタイプの方式は、フランス科学アカデミーで発表されると、たちまち世界各地に広まり、日本にも、1840年代にはダゲレオタイプのカメラが渡来したといわれている。

1850年代になって、湿板写真術に発展し、1870年代に乾板が開発されて、今日の銀塩写真方式が登場してきた。わが国でも、1860年代には、写真術が実用化され、専門の写真師が誕生し、写真館(スタジオ)が開業された。

その後、写真館の数も次第に増加した。写真館での写真撮影が普及し、「写真」が多くの人びとに理解されるようになってきた。

大日本セルロイドが発足したころは、写真を業とする営業写真館だけでなく、趣味として写真を楽しむ、いわゆるアマチュア写真家も登場しはじめた時代であった。写真用のフィルム、乾板、印画紙の需要も次第に増加してきたが、その供給はすべて輸入に依存していた。

このような状況のもとで、写真感光材料の企業化の動きもようやく現われてきた。

すでに1880年代から、何回か、小規模に、乾板、印画紙の製造が試みられてはいたが、その多くは製品の完成をみることなく終わっていた。本格的な企業化の動きが現われたのは1900年代に入ってからで、1902年(明治35年)、写真機材の輸入商であった小西本店(現コニカ株式会社)が、乾板と印画紙の国産化を企図して、六桜社を設立した。また、1910年(明治43年)には、高橋慎二郎によって、東京雑司ヶ谷に、高橋写真化学研究所が設立され、小規模ながら、乾板の研究が行なわれてきた。

[写真]>明治時代の写真館(徳島の立木写真館)

明治時代の写真館
(徳島の立木写真館)

しかし、1919年(大正8年)に入っても、写真フィルムについては、製造はもちろん研究すらも皆無に近い状態であった。

このようなわが国の市場をねらって、1921年(大正10年)には、コダック社や、ドイツのアグファ社が、日本に代理店を開設し、本格的にわが国への進出を始めた。

一方、このころ、「活動写真」すなわち映画が、大衆娯楽の王座に上りつつあった。わが国初の常設映画館「電気館」が東京浅草に誕生したのは1903年(明治36年)のことであったが、大正末期のわが国の映画館の数は1,000軒を超えた。当時はまだ無声映画の時代ではあったが、映画は、新しい娯楽として、次第に大衆の間に根をおろしていった。

写真フィルム国産化を企図

写真フィルムの国産化という課題は、大日本セルロイドにとって、セルロイドの新規需要の開拓という、事業拡大のための格好のテーマであるとともに、写真フィルムの輸入を防あつするという社会の要請に応えるものであった。

「其当時国内にては未だフィルムの生産はなく、映画の原板は総て米独よりの輸入に仰ぎ、其額は当時の金額にして八百万円~一千万円に達したり。其原料、其技術の関係よりして、之を解決するはセルロイド生産業者の責務なりと断じ、セルロイド会社利益の一部を割愛し、フィルムの製造試験に従事したり。」

これは、大日本セルロイドが、フィルム国産化のための製造実験に着手した意図について、大日本セルロイド森田社長の後年の述懐である。

大日本セルロイド森田社長は、その原料や技術の関係から考えても、フィルムの国産化は自社が果たさなければならない社会的責務であると考え、こうした使命感からも、フィルム国産化に乗り出す決意をしたのである。森田社長の意図は、単に外国から材料を購入して国内で加工、製品化するというのではなかった。フィルムベースの製造から、感光剤の製造、塗布、そして加工まで、写真フィルムの一貫メーカーへのチャレンジであった。

フィルムベースの製造実験に着手

[写真]大日本セルロイド技師長 樋口修平

大日本セルロイド技師長
樋口修平

[写真]大日本セルロイド技師長 青木英吉

大日本セルロイド技師
青木英吉

[写真]大日本セルロイド技師長 作間政介

大日本セルロイド技師
作間政介

写真用のフィルム、乾板、そしてそれを焼き付ける印画紙を総称して写真感光材料という。写真感光材料は、フィルムベース、ガラス、紙などの各種の支持体に、感光剤を塗布して製造する。光に感ずるという写真の基本的な働きをする感光剤の主体は、ハロゲン化銀である。ゼラチン水溶液の中に、臭化カリウム、よう化カリウム、塩化ナトリウムなどのハロゲン塩類を入れて溶解し、これに暗室で硝酸銀水溶液を加えると、感光性をもつハロゲン化銀ができる。乳濁状を呈しているので、一般に写真乳剤と呼ばれる。感光物質としてハロゲン化銀を使用するので、銀塩写真ともいわれる。

大日本セルロイドは、まず、写真フィルムの支持体(フィルムベース)の研究から着手した。

フィルムベースに使用するセルロイドは、がん具などに使われていた既存のセルロイドと異なり、平面性、透明性、柔軟性、耐久性のほか、写真乳剤に対する適性が要求され、その製造には、技術面で克服しなければならない多くの問題があった。

最初に着手したのは、フィルムベースの流延、すなわちセルロイドをフィルム状に薄く引き延ばす実験である。

フィルムベースの研究は、大日本セルロイド創立の翌年1920年(大正9年)から、同社技師長樋口修平、技師青木英吉によって始められた。青木技師は、同社堺工場の見本試作室内に、小型フィルム流延装置を設置して実験に着手した。

翌1921年(大正10年)、青木技師が堺工場長に就任したため、この研究は、技師作間政介(後の当社専務取締役)に引き継がれた。作間技師は、前任者が行なった基礎研究のデータをもとに、ドラム式流延法でフィルムベースをつくる実験に着手した。

堺工場の実験室は、床から天井までが3.3m。このスペースに可能な限り大きなドラム機を納めようと苦心し、結局、直径2.42mの円筒形のドラムをつくり、これに幅15.24cmの平滑な硬質真ちゅう帯を取り付け、その表面を研磨し、メッキをして、連続流延できるドラム製帯機を完成させた。

フィルムベースの製造実験は、原料の調合比率、溶剤の組成、はく離条件などについて、根気よく進められた。

これと並行して、1922年(大正11年)夏からは、写真乳剤の研究にも着手し、必要な器具、装置を整備して、製造実験が進められた。

コダック社、大日本セルロイドの提携申し入れを拒否

このように、フィルムベースと写真乳剤の研究はスタートしたが、写真フィルム国産化の早期実現のためには、外国の有力メーカーと技術的に提携するのが早道である、という考えがあった。

この考えのもと、1924年(大正13年)5月、当時すでに世界最大の写真フィルムメーカーの地位を確立していたコダック社に、技術提携の申し入れを行なった。この申し入れを受けたコダック社は、まもなく技師を日本に派遣し、大日本セルロイドにおける研究の進ちょく状況を調査するとともに、わが国での写真フィルム工場の立地の可能性などについて、広く調査を行なった模様であるが、結局、“日本に適地なし”を理由に、大日本セルロイドの申し入れを拒否した。

ここに至って、大日本セルロイドは、たとえ日時を要しても、独力で写真フィルムの開発に取り組む以外に道はないとの決意を固め、次のように、写真フィルム事業の方針を決定した。

  1. 写真乳剤の製造は、自社で少数の技術者が研究するよりも、既設の写真工業会社の経営に参画して、その会社の技術の開発を強力に推進させる方が早道である。
  2. ベース、フィルム、印画紙の製造の研究は、大日本セルロイド自ら中間製造試験所を設けて、専心これを行なう。
  3. これらの技術が確立したときには、すべてを総合して、ベースから写真フィルムまでの一貫製造工業を興す。

大日本セルロイドは、1926年(大正15年)12月、上記の方針を基にして、「フィルム事業自立計画」を正式に決定した。ここに、写真フィルムの一貫製造に向けて、その第一歩を大きく踏み出したのであった。

東洋乾板との提携

[写真]東洋乾板株式会社

東洋乾板株式会社

[写真]東洋乾板の関係者(左より高橋慎二郎、作間政介、菊池恵次郎、嶋村足穂)

東洋乾板の関係者
(左より高橋慎二郎、作間政介、菊池恵次郎、嶋村足穂)

1926年(大正15年)7月、大日本セルロイドは、東洋乾板に10万円を出資、技師作間政介を同社の専務取締役として派遣し、経営の立て直しを図るとともに、両社協定して、写真フィルム製造の試験研究を進めることとした。

東洋乾板は、1919年(大正8年)2月11日、資本金20万円をもって、東京雑司ヶ谷に設立された。その前年1918年(大正7年)に、愛媛県八幡浜出身の実業家菊池恵次郎・菊池清治兄弟が、高橋慎二郎の国産乾板製造の所信に共鳴し、より大きな資本と整った設備をもって、より優れた乾板を製造することを提案し、話し合いの結果、翌年、発足の運びとなったものである。

発足当時の主な役員は、

取締役社長 菊池恵次郎

専務取締役 辻 広

取締役技師長 高橋慎二郎

であった。

同社は、発足後さらに研究を重ね、1921年(大正10年)1月、開発者高橋慎二郎の頭文字から商品名を付けた“ST乾板”を発売するまでになったが、その売れ行きははかばかしくなく、ストックは累積するばかりであった。その上、1923年(大正12年)9月1日、突如として襲った関東大震災によって、乾板工場は大被害を受け、その復旧に手間どって苦境に陥り、その打開策を求めていた。

ちょうどそのころ、大日本セルロイドが、写真フィルム国産化を企図する中で、写真乳剤の研究の提携先として、東洋乾板に白羽の矢を立てたのであった。

[写真]>東洋ST乾板(レーベル)

東洋ST乾板(レーベル)

[写真]東洋パンクロ乾板(レーベル)

東洋パンクロ乾板(レーベル)

[写真]東洋プロセス乾板(レーベル)

東洋プロセス乾板(レーベル)


東洋乾板の整備

[写真]東洋乾板での乾板の実験風景

東洋乾板での乾板の実験風景

大日本セルロイドが写真乳剤の試験研究をゆだねた東洋乾板は、長年に及ぶ研究ですでに基礎は確立していたとはいえ、その技術はまだ幼稚なものであり、製造設備も家内工業の域を出ないものであった。

東洋乾板の当時の状況について、作間政介は、後年、次のように回顧している。

「東洋乾板の製品たるや、スポットも多いし、カブリもあるといった具合いで、材料店や写真館に売り込むのには苦労したものだった。」

「膜が柔らかく、現像していくうちに、乾板が素ガラスになってしまうのが出たりして、全く閉口した。また下志津(千葉県)の陸軍飛行学校で航空乾板を使って写したら、写したはずの像以外に、花嫁の像がボーッと現われて、すわ幽霊写真? とびっくり! 怪談話もどきの事件があったこともある。しかし、これは別に不思議ではないのだ。というのは、当時の乾板は、古いものの写真乳剤を洗い落としては、ガラス板を再生使用するのが一般だった。その洗い落としが不十分なため、前の(結婚写真の)像がそのまま残って、それが幽霊となって現われるというわけだ。」

このように笑うに笑えない話もあったが、その後、製造設備も復旧、更新され、また、1926年(大正15年)11月、商工省からの工業奨励金1万円の交付によって、研究施設も整備された。また、水野定三郎(後の東洋乾板技師長)や藤澤信(後の当社取締役副社長)などの入社もあって、技術の改善も著しく、1929年(昭和4年)に“東洋トロピカル乾板”を発売したのを皮切りに、“東洋スタジオ乾板”、“東洋パンクロ乾板”など、各種の新製品を発売していった。

なお、1933年(昭和8年)12月には、乾板の製造に関して、商工省から研究奨励金9,000円の交付を受けた。

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