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“シルバーショック”を超えて - ワールドエンタープライズを目指して

 

1970年代に入って、当社は積極的に設備投資を推進していく。1971年(昭和46年)の時価発行増資と数次にわたる無償増資によって、1977年(昭和52年)には、当社の資本金は、151億円となる。翌1978年(昭和53年)には、当社は、東京証券取引所において指定銘柄に選定される。またこの年、スイスフラン建転換社債を発行する。この間、ニクソンショック、“シルバーショック”という経営環境の激変にもかかわらず、市場ニーズに合った新製品の開発と全社一丸となったコストダウンの努力によってそれを乗り越え、1980年度(昭和55年度)には、売上高は、4,000億円を突破、利益も157億円を確保し、文字どおり“世界の富士フイルム”へと大きく成長していく。

資本金150億円に

当社は,1970年代に入って世界企業への成長・発展を目指し,積極的な設備投資を行なってきた。富士宮工場のX-レイフィルム工場や足柄工場の新鋭カラーフィルム工場の建設,そして吉田南工場の新設などがその主たるものであり,それらの建設のために巨額の設備資金を投入してきた。

これらの資金には主として自己資金や利益を充ててきたが,それだけではとうていまかないきれず,その不足分は銀行などからの借入金に依存した。また,1970年(昭和45年)12月には1,500万ドル(54億円)の外貨建転換社債を発行した。

しかし,自己資本比率を高め,財務体質を根本から強化するには,借入金に依存しないで増資によって資本金の増加を図ることが必要である。当社は,こうした考えに立ち,1971年(昭和46年),新株式1,500万株を時価発行することに決定した。

募集の方法については,一般募集(いわゆる公募)とし,発行価格については,当社株式が当時市場で人気を得ていたこともあり480円に決定した。

当社は,当時,年々収益を向上させており,当社株式は市場で人気を得ていたうえに,新株式の発行は1964年(昭和39年)以来7年ぶりであったこともあって,払込期日(6月30日)にはすべての払い込みを完了し,1971年(昭和46年)7月1日現在の新資本金は,外貨建転換社債の株式転換分も含めて109億8,125万円となった。

その後,当社は,時価発行に伴うプレミアムの還元として,1971年(昭和46年)10月,1972年(昭和47年)4月および10月,1973年(昭和48年)4月の4次にわたり,1株につき0.05株の無償交付を行ない,1973年(昭和48年)4月21日現在の資本金は,外貨建転換社債の株式への転換も含めて134億7,400万円となった。さらに,1977年(昭和52年)10月には資本準備金の一部資本組み入れにより,1株につき0.1株の無償交付を実施し,同年10月21日現在の当社の資本金は151億519万円(外貨建転換社債のその後の株式への転換も含む)となった。

[写真]指定銘柄の選定を伝える新聞記事 日本経済新聞 1978年(昭和53年)9月

指定銘柄の選定を伝える新聞記事
日本経済新聞
1978年(昭和53年)9月

当社株式は,1978年(昭和53年)9月,東京証券取引所から「指定銘柄」に選定され,名古屋・福岡・新潟・札幌の各証券取引所でも「指定銘柄」に選ばれた。

「指定銘柄」とは,株式の信用取引制度の改善によって,従来の「特定銘柄」に代わって新たに設けられた制度で,信用取引に関して毎日信用取引残額が公表されるなど優遇措置がとられることになった。この指定銘柄には,日本を代表する各業界のトップ企業12社が選ばれたが,その1社に選定されたことは,当社にとっても栄誉なことであった。

また,この間,1977年(昭和52年)4月にスイスフラン建転換社債を発行した。発行総額は1億スイスフラン(約108億円),利率は年4.75%,満期は5年で,転換価額は872円であった。これは,スイス・ユニオン銀行を引き受け銀行として,総額買い取り引き受けによる私募債として実現したものである。

売上高4,000億円を突破

ニクソンショック,第1次石油危機,第2次石油危機とそれに伴う“シルバーショック”と1971年(昭和46年)から1980年(昭和55年)にかけて当社を取り巻く経営環境が大きく揺れ動く中で,当社は“世界企業”を目指して,多くの新製品を開発し,世界の市場に提供してきた。また,大規模な設備投資を積極的に推進し,最新鋭の製造設備を導入して生産の合理化とコストダウンを実現した。さらに,省エネルギーや省資源を追求する一方,経営全般にわたっての減量経営と企業体質の転換も図ってきた。

このような努力の結果,第1次石油危機を乗り切った1976年度(昭和51年度)には,売上高は対前年比18.0%増の2,267億円と2けた台の伸びを示し,利益額では100億円を確保,第1次石油危機後3年目にして,ようやく業績も回復した。

続く1977年度(昭和52年度)は,前年度末に発売した“フジカラーF-II400”の好影響で,国内・国外の市場で,カラーフィルムやカラー印画紙などアマチュア関係製品が大幅に伸長,また,医療用・印刷製版用・マイクロシステム関係用・映画用の各製品をはじめ,磁気記録材料や感圧紙なども着実に伸び,売上高・利益ともに続伸した。

しかし,翌1978年度(昭和53年度)には,急激な円高と輸入関税率の引き下げによって販売競争が激化したこと,とりわけ円高の影響で輸出が対前年度比1.6%減の676億円にとどまったことにより,売上高は伸び悩み,利益は対前年度比11.6%減の124億円(利益率4.5%)と再び減益決算を余儀なくされた。

次の1979年度(昭和54年度)は,第2次石油危機の発生に伴う石油および原料価格の高騰,とりわけ銀価格の異常なまでの暴騰に見舞われ,当社は徹底したコストダウンを追求したが,それでも原材料価格の上昇を吸収することができず,売上高は3,122億円と前年度より12%増加したが,利益率は4.1%と低下した。

翌1980年度(昭和55年度)に入っても,銀価格の異常な高騰はとどまるところを知らず,当社は,各部門にて徹底した合理化を追求するとともに,一部製品の価格改訂を実施した。幸い,銀価格は1980年(昭和55年)1月をピークとして下降に向かったこと,為替レートが円高から円安に転じ輸出が再び増勢に転じたことなどにより,1980年度(昭和55年度)では,売上高は4,046億円と,初めて4,000億円を突破した。利益は157億円を確保したものの利益率は3.9%に低下した。

このように,収益状況には大きな変動があったが,当社は1967年度(昭和42年度)下期以来1981年度(昭和56年度)まで,一貫して15%の配当を安定配当として実施した。

連結決算でも好成績を

[写真]1970年度アニュアルレポート(連結決算報告書)

1970年度アニュアルレポート
(連結決算報告書)

海外で資金を調達するためには,海外の投資家に対して,より適切に当社の経営内容や財務情報を提供し,当社への信頼度を一層高めることが必要であり,欧米における企業情報の提供は,連結財務諸表によってなされることが一般的である。連結財務諸表は,企業を単独の企業としてとらえるのではなく,子会社や関連会社を含めた企業グループとしてとらえ,グループ全体の財務状況を示す。したがって,連結財務諸表の作成は,また,当社が富士フイルムグループ全体の経営を管理していくためにも必要なことであった。

当社は,ドル建転換社債を発行した1970年度(昭和45年度)から,米国会計基準による連結財務諸表を作成し,以後,継続して作成・開示を行なってきた。なお,連結財務諸表の作成に関して,当社はプライスウォーターハウス会計事務所公認会計士(現青山監査法人)の会計監査を受けることとした。

当社が,1970年度(昭和45年度)に連結決算を開始して以来,1983年度(昭和58年度)まで,連結業績は,売上高・利益とも,常に当社単独決算を上回る好成績をあげてきた。これは,海外子会社を含む連結対象の子会社の業績がほぼ順調に推移したことに加えて,富士ゼロックス社をはじめとする持分法(出資比率に応じて損益を連結決算に反映させる)適用の関連会社各社がそれぞれ順調に活動を展開し,富士フイルムグループ全体としての効率的な経営が遂行されたことを物語るものである。

小林会長逝く

[写真]小林節太郎会長の社葬

小林節太郎会長の社葬

1977年(昭和52年)8月12日,当社に大きな悲報がもたらされた。同日午前3時30分,会長小林節太郎が急逝したのである。享年77歳であった。前日まで元気な姿で出社していただけに,この突然の訃報に接し,役員・従業員は信じられない思いであった。

小林会長の葬儀は,同月19日,築地本願寺において,社葬として,しめやかに執り行なわれた。

小林会長は,当社会長のほか,富士ゼロックス会長,ならびに写真感光材料工業会,経済団体連合会,日本経営者団体連盟などでそれぞれ要職を歴任した。葬儀には,写真業界をはじめ政・財界など各界から4,500名を超える方々が参列し,小林会長の逝去を悼んだ。

故小林節太郎には,生前の数々の功績に対し,正四位勲二等旭日重光章が追贈された。

それ以前にも,1974年(昭和49年)2月に専務取締役杉野直が逝去し,1975年(昭和50年)2月には元副社長藤澤信が逝去した。

杉野直は,入社以来一貫して製造・技術部門を歩み,各種新技術の確立に大きな功績を残した。生前の功績に対し,1974年(昭和49年)3月,従五位勲四等瑞宝章を贈られた。

藤澤信は,1927年(昭和2年)東洋乾板に入社。当社創立後は,乾板やフィルムの写真乳剤の基礎技術の確立に努め,1939年(昭和14年)研究所の設立とともに初代研究所長に就任。各種カラーフィルムを完成し,また,磁気記録材料や電子写真にいち早く着目するなど多くの業績を残した。藤澤元副社長は,長年にわたって写真工業の技術開発に尽くした功績で,1973年(昭和48年)11月,勲三等旭日中綬章を受章したが,生前の功績が認められ,1975年(昭和50年)3月,従四位に叙せられた。藤澤元副社長が収集した写真に関する世界中の文献のほか,遺稿や遺品を基に,1976年(昭和51年)3月,足柄研究所内に藤澤記念室を開設した。

その後,1979年(昭和54年)5月には,専務取締役松浦静雄が逝去した。松浦静雄は1937年(昭和12年)に入社して以来,購買および営業の第一線で活躍し,特に,産業材料分野の市場開拓に功績を残してきた。

小林会長をはじめ,藤澤元副社長,杉野専務,松浦専務と,当社の各方面で大きな業績を残し,長く経営の中枢で活躍してきた人びとを失ったことは,当社にとって大きな痛手であった。

一方,1974年(昭和49年)から1984年(昭和59年)にかけて,当社役員ならびに元役員は,次のような叙勲,受章を受けた。

1974年(昭和49年)4月に社長平田九州男が,翌1975年(昭和50年)10月に副社長福田神郎が,それぞれ藍綬褒章を受章。

1976年(昭和51年)4月に,元副社長竹内喜三郎が写真工業の技術の確立に努めた功績で勲三等旭日中綬章を受章し,1977年(昭和52年)4月には元副社長松本生喜が,わが国写真工業の発展に貢献した功績で勲三等瑞宝章を受章。

1979年(昭和54年)11月に,社長平田九州男は,わが国写真産業の国際市場での地位を高めた功績で,勲二等瑞宝章を受章。1982年(昭和57年)11月には元副社長福田神郎は,わが国写真工業の技術水準を世界的水準まで到達させた功績で勲三等旭日中綬章を受章した。そして,1984年(昭和59年)4月,副社長苅込一郎は,発明改良を育成した功績で藍綬褒章を受章した。

[写真]勲三等旭日中綬章を受けた藤澤信元副社長

勲三等旭日中綬章を受けた
藤澤信元副社長

[写真]勲四等瑞宝章を受けた杉野直専務取締役

勲四等瑞宝章を受けた
杉野直専務取締役

[写真]勲三等旭日中綬章を受けた竹内喜三郎元副社長

勲三等旭日中綬章を受けた
竹内喜三郎元副社長

[写真]勲三等瑞宝章を受けた松本生喜元副社長

勲三等瑞宝章を受けた
松本生喜元副社長


[写真]勲二等瑞宝章を受けた平田九州男社長

勲二等瑞宝章を受けた
平田九州男社長

[写真]勲三等旭日中綬章を受けた福田神郎元副社長

勲三等旭日中綬章を受けた
福田神郎元副社長

[写真]藍綬褒章を受けた苅込一郎副社長

藍綬褒章を受けた
苅込一郎副社長

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