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“シルバーショック”当社を襲う - コスト低減の徹底追求

 

第1次石油危機をようやく克服したわが国は、1979年(昭和54年)、第2次石油危機に直面する。そして、同年秋には、当社にとって、より一層大きな影響を受ける事態が発生する。すなわち、銀価格の異常な暴騰がそれであり、1980年(昭和55年)1月には、1kg当たり最高34万円台をマークする。コストの中で銀価格が大きなウエートを占めている写真感光材料メーカーにとっては、その存立を脅かされかねない“シルバーショック”と称すべき重大事態となる。こうした厳しい経営環境の中で、当社は、写真感光材料製品の省銀化をはじめ、全社を挙げて、さらに徹底したトータルコストダウン作戦を展開していく。

第2次石油危機と銀価格の暴騰

1973年(昭和48年)10月に発生した第1次石油危機に伴う燃料や原材料の価格上昇に対して,当社は,省エネルギー・省資源をはじめとする総合的な対策で可能なかぎり吸収し,同時に,新製品の導入や販売努力などによって乗り切ってきた。しかし,1977年(昭和52年)からは,さらに急激な円高という経営環境の激変に直面し,1979年(昭和54年)には第2次石油危機を迎えた。

第1次石油危機後1ドル300円前後をつけていた円相場は,1977年(昭和52年)以後,急激に上昇し,1978年(昭和53年)10月には1ドル175円50銭と市場最高値を記録した。

円相場は,その後修正の動きが出て200円台に戻ったが,1979年(昭和54年)には,今度は原油価格および銀価格の暴騰という当社の経営を根底から揺るがす一大ショックに襲われた。

原油価格の高騰は,石油関連製品の価格高騰をもたらし,当社もまた,強い影響をこうむらざるを得なかった。第1次石油危機の時にもまして,さらに徹底した省エネルギー・省資源あるいは代替品の開発などを進め,その対応策を講じていった。しかし,原油価格や石油化学製品の価格高騰に加えて当社により一層大きな影響を与えたのが,銀価格の異常な暴騰であった。

石油や金の価格の急騰に比べて,銀価格の暴騰は,世間ではあまり知られていなかったが,銀を主原料とし,コストの中で銀価格が極めて大きなウエイトを占めている写真感光材料メーカーにとっては,まさに“シルバーショック”と称すべき重大事態であった。

[写真]銀の価格推移(国内一般銀建値 1979年5月~1980年10月)

すなわち,第1次石油危機に伴って,銀価格は,それまでの1kg当たり1万円台から,1974年(昭和49年)3月には,5万7,000円台にまで急騰した。その後騰落を繰り返しながら,1978年(昭和53年)には,円高も加わって,一時は3万4,000円台まで下落した。しかし,イランの政変や原油価格の上昇に伴って,銀価格は再び上向きに転じ,国内建値は,1979年(昭和54年)5月の5万9,000円から半年間で2倍以上に高騰し,10月下旬には13万円台となった。その後,米国での投機も加わって,年末にかけて上昇一途となり,1980年(昭和55年)の新年は,天井知らずに上昇する銀価格に振り回され,いつ価格上昇が止まるのか見通しの立たない不安とその対策に目まぐるしく追われる多忙の中で迎えた。銀購入価格のあまりの高騰に運転資金にも大きな影響が見込まれ,一時的ではあったが,銀行借入に奔走した時期もあった。1月18日にはニューヨーク市場で瞬間最高値1オンス50ドル超を記録,1月第3旬の国内建値も1kg当たり34万6,000円と史上最高値をつけた。1978年(昭和53年)の円高による安値時に比較すると,わずか2年間でちょうど10倍に上昇したことになり,写真感光材料製品はおしなべて大幅な採算割れとなった。

製品の単位面積当たり銀の使用量の多いX-レイフィルムの場合は,製品の原価中の銀価格だけですら販売価格を上回るという事態となり,生産すればするほど赤字が増える事態となった。しかし,X-レイフィルムの社会的役割の重要性から,当社は,生産量の維持に懸命の努力を払い,円滑な供給を図った。

この銀価格の暴騰に加えて諸原材料価格の大幅な上昇は,当社にとっては,その存立を脅かされかねないショッキングな事態であった。

[写真]銀塊

銀塊

当社は,諸原材料価格のアップ分については,これまで,極力コストダウンなどの企業努力で吸収を図ってきた。しかし,このような大幅な銀価格の高騰は,企業努力だけではとうてい吸収しきれないので,やむを得ず一部製品価格の改訂を行なった。しかしながら,コストアップ分を価格改訂だけでカバーすることは到底不可能で,全般に採算が悪化する中で,より徹底した経費節減や抜本的なコスト引き下げ対策の促進を迫られたのであった。

幸い,銀価格は,1980年(昭和55年)1月末をピークとして反落に転じ,同年5月上旬には国内建値1kg当たり11万5,400円になった。この銀価格の反落に伴い,同年5月から7月にかけて,先行きなお見通しの難しい情勢ではあったが,緊急値上げした製品の価格修正を実施した。その後,銀価格は再び反騰し,同年9月には15万円を記録した。以後は徐々に低下し,1981年(昭和56年)1月には10万円前後にまでなったものの,なおシルバーショック発生前の2倍以上の価格水準であった。

さらに強力なコストダウン活動の展開

当社は,第1次石油危機の峠を越えた1976年度(昭和51年度)を迎えるに当たって,その年度の経営基本方針として,(1)研究開発力の強化による自己技術の確立(2)マネジメントの刷新による活力ある職場環境の育成とならんで(3)として,“国際競争力のある品質・コストの実現”を特に掲げた。このテーマは,従来からも重要項目として絶えず取り上げてきた課題であったが,第1次石油危機で体験した厳しい環境を直視して,この際さらに強力に推進することとしたものである。「当社の今後の成長力と収益力を確保する原動力は,国際競争力のある品質およびコストの実現にある。研究開発力の強化によって,ユーザーメリットの高い高品質商品の開発を推進するとともに,営業・研究・生産部門のみならず,本社を含めた全部門が英知を結集し,経営コスト全体の引き下げに最大限の努力を傾注する」ことを社長から全社に指示した。そして,その具体的内容として,(1)販売力の強化による市場開拓と生産効率化によるコストダウンの推進(2)量販・量産に依存しないコストダウンの強力な推進を掲げ,この基本方針のもと,幅広く,きめ細かくコスト削減対策に取り組んでいった。

続いて,1979年(昭和54年)1月には,第2次オイルショックと円高に対して,むしろ積極的にこれに立ち向かうべく,全社をあげて挑戦するコストダウン活動を強力に展開した。研究・生産・営業・物流・本社・購買……それぞれの部門によって活動の重点項目は多岐多様にわたった。各部門は,自ら実施し得るコストダウン対策を検討し実行に移すとともに,それぞれの関連部門が協力し合って,全社的なコストダウンを実現していった。

銀については,写真感光材料製品中の使用銀量の低減が最も効果的なコストダウンの方法であり,特に製品中の含有銀量の多いX-レイフィルムの省銀化を中心として,強力に技術開発を促進した。

言うまでもなく,工場の生産工程におけるコストダウンの追求は,常時精力的に行なわれており,その成果も積み重ねられている。特に,第1次石油危機を契機として,各工場は,それぞれ具体的な目標を掲げてコストダウンに挑戦した。小集団活動のテーマとしても重点的に取りあげられ,積極的な活動が展開された。

足柄工場では,職場のRM活動の目標として,できるだけ具体的なテーマを定め,それに向けて職場の全員が取り組むと同時に,関連する工程を受け持つ職場にも協力を求めて互いに意見を出し合って問題解決を図るなど,従来にもまして積極的に目標達成に努めた。また,富士宮工場でも具体的な目標を掲げてテーマに挑戦し,多くの改善策を実施に移して,品質の向上とコストダウンを実現していった。このほか,小田原工場・吉田南工場でも同様に,精力的にコストダウン活動を展開し,それぞれ成果を生んでいった。

このようにして,写真感光材料製品の省銀化などの直接的な対策や各工場生産工程あるいは間接部門など,全社をあげてのコストダウン活動の展開,そして一部製品価格の改訂などによって,シルバーショックを可能なかぎり吸収あるいは軽減してきた。

[写真]シルバーショックのときの写真感光材料工業会の広告日本経済新聞 1980年(昭和55年)2月

シルバーショックのときの写真感光材料工業会の広告
日本経済新聞 1980年(昭和55年)2月

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